沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

この国の終わり 合理性を顧みない国策を続ける日本にいる日本人

 4月15日沖縄県コロナ感染状況

入院中391人(重症者32人、中等症117人)、入院・療養等調整中198人、宿泊施設療養中120人、自宅療養中518人、療養中患者計1227人、死亡130人、累積感染者数11137

名護市感染者数455人(解除385人)、北部保健所管内150人(解除124人)、那覇市3346人(解除3014人)

10万人当たり新規感染者数(4月14日)56.69(全国2位)

 9日に県衛生環境研究所が確認した感染力の強い変異株「N501Y」に感染した20人のうち、15人が北部保健所の管内で確認されていた。

 県は感染拡大に歯止めがかからない要因の一つが変異株としている。県専門家会議メンバーの高山義浩医師は10日の会見で全国の多くの地域で変異株が広がっているとした上で「流行に巻き込まれると、県民が努力をしても防げなくなる」と指摘。感染の中心が変異株に変わる前に、現在の感染状況を改善する重要性を強調した。

 県によると北部で確認された15人は名護市での行動がつながっている。玉城デニー知事は同市を重点措置の対象にした理由に変異株の多さを上げた。

 県の糸数公医療技監は「(15人の)つながりはある程度追えている」として散発的な感染ではないとの見方を示した。クラスター(感染者集団)に当たるかは保健所が調査している。(以上沖縄タイムス記事)

 4月12日沖縄県は政府の「まん延防止等重点措置」に指定され、県も警戒レベルを最高の第4段階(感染まん延期)に引き上げると発表。県民は多かれ少なかれこの(第4波に入った)コロナ禍への警戒感を一層強めている(のだろう)し、県外からの取り分けGWからみの流入もかなりの割合で(ホテルなど)キャンセルされてきている。

 昨年初めに端を発したこのコロナ禍にあって、既にこれまで1年以上にわたり国の無為無策ぶり、むしろ逆効果とさえ言える悪策愚策をいやというほど目にしてきた我々は、こういう、字面だけ「警戒感」を出そうとしている(やってる感丸出しの)国が雰囲気醸成、印象強調路線を発出しているのにもかかわらず、一方で、何が何でも実施しないでは済まない東京オリパラの狂騒曲(IOC会長が絶対的開催宣言を出した)を目の当たりにすると、彼らIOC自公政権、政府、オリパラマフィアたちの、脳漿内にある狂った計算機(公には合理性を閑却した空間に働く)が弾き出す矛盾即合一の奇天烈回答(彼らには通用しても常識的な評価に耐えない答え)に、恐らくは彼らのごり押しの真の犠牲者は、今後間違いなく、実際オリパラなど何の関係もないこの国の普通の民であろうと思わずにはいられない(招かざるべき客である海外からの競技者・関係者が数万人押し寄せ、ダダ洩れ状態の日本の国内防疫体制下、市中に変異株ウイルスをまき散らし、諸処にクラスタを発生させ、収まりのつかない感染無法地帯を現出させるのであろう)。勿論無理筋開催により、さながら競走馬のように命がけで競技人生を全うしようというアスリートたちも、向後逃れようもない感染リスクを背負うこととなる。

 「やってみなきゃわからない」とばかり米英に宣戦布告した大日本帝国の戦争指導者たちがしでかしたのと同じことが、安倍・菅路線によって再現されるのだと。国民は、お上のやることに間違いはないのだからという封建奴隷的心情によって無言の臣従を選ぶ(協賛媒体を固持する報道等関係機関も商業主義の頸木から逃れようもなく戦前並みに翼賛化してしまった)。

 神国日本の妄想に取りつかれ「神風が吹く」的神頼みに安住し(この確実に第4波といえるもののうねりをまのあたりにしてさえ、オリパラに関するコロナ禍制圧宣言まがいの根拠なき勝利宣言先取りを口にし)、「何とかなるだろう」と怯懦にも安穏に多寡を括っているらしい様子が見えてくる(「(政府は)何もやらなかったというのは余りに失礼じゃないでしょうか」と菅は、さも尽力した最善の宰相とでも言いたげな風情でいるようだが、実際は何もしないどころか結果的には悪いことばかりしている)。国民は彼らの作り出す明らかに偽物の雰囲気にのまれ、やがて如何ともしがたく、「なるようにしかならない」と諦めて、オリパラでもなんでもやってやれないことはないと、その脳内のスイッチを否応なく切り替えることだろう。亡国の民よ、覚れ。

 利権既得権塗れの大会実行機関やオリパラマフィアたちのコロナ禍等閑視は、沖縄の基地公害同然の、住民を日常的に不可測なリスクの中に我関せずと置き去りにして臆面もなく我欲に走る、鬼畜的所業でしかない。しかし驚くべきことは、世界中(日本の大メデア・マスコミ・ジャーナリズムも挙って)が彼らを直ちに糾弾することなく、するがままにただ傍観し、どうでもいい話に打ち興じている有様だ(但し、諸外国の主だった報道機関の論調は、確実に国民世論同様の開催反対意見を披歴してはいる)。

 尤も、二階が「中止」の文言を何気に口走ったのは、彼らにも、最早収拾のつかない事態が差し迫っていることを認めざるを得ない有様が手に取るようにわかろう。国内世論、国際世論いずれにおいてもオリパラ狂騒曲を歯噛みして見つめるさまは明らかだ。

 ここまで書いて筆者は如何ともしがたくこの国の精神的乱脈ぶりを痛感し、合理性を等閑視する狂気が人命さえ危うくする実態に戦慄さえ覚える。安倍・菅路線の劣等児ぼんくら政治には早々に埒外に消えてもらう以外ないと。(つづく)

この国の終わり  LITERA 聖火リレーのスポンサー車両がバカ騒ぎで批判殺到もマスコミ沈黙

 この東京オリパラという、人類史上稀に見る、人間の欲得だけが絡む(日本国民8割がた開催に反対し世界の過半がそれを中止すべきとする世論に背を向けた)コロナ禍の中の異様なカーニバルは、ナチス由来の聖火リレーなる滑稽で不気味な儀式に始まり、このあと100数日にわたって日本列島を縦断し(コロナ汚染を徒に蔓延させ)、東京に戻って国立競技場の聖火台に点火し、誰かが開会を宣することで事実上成立する。

 この瞬間、日本国と東京都、日本人は、先の大戦以来のコロナ戦争敗戦国として再びの汚名を被る運命を選んだわけだ。と同時に、今まさに再拡大しつつある感染実態に接してなお、欲得の充足という獣的な一面だけが突出することで、恐らくはこの国の精神の闇をいよ増しに深くし取り返しのつかない絶望的状況を現今コロナ禍に加えることとなる。

 待ったなしで我々に危惧されるのは、世界がこのコロナ禍を、様々な意味で今後解消する手立てさえ見つからない現状にあるということだ。しかも変異株ウイルスの新たな感染拡大が始まっていて、次第にそれが主流になると言われる。

 つまりこれまでの治験・エビデンスでは回答が示されない、新ワクチンによる対応の問題が露わになってきているということ。今出回りつつあるワクチンは既に過去のものになるかもしれないということ。

 とすれば、再び救済手段の開発、治験、エビデンス獲得研究を一からやり直さねばならないことになる。2021年が2020年の世界挙げての周章狼狽をもっと深刻な大団円の渦中に繰り広げることになろう。その図がかすかに見えてきている。してみればこの東京オリパラとは絶望の中の「ええじゃないか」騒ぎ以外の何物でもないということになる。

 但しその黒幕は利権既得権塗れの大企業やIOCJOC組織委員会などの胡散臭い連中であり、自公政権であり、国民やアスリートたちはこいつらに踊らされて空しく破滅を準備する狂った国の人身御供となる。

 この国の富裕層が、この国の危い経済指標のいくつかを偏頗に押し上げていることは、ちょっとデータを弄ってみればすぐにわかる。しかもこの層は全人口の1割程度だ。概ね自公系政治集団が取りざたする経済関係の数値は、こうした偏頗なデータの寄せ集めに他ならない。はっきり言って彼らの示す何らか彼らに利するデータ、数値はほぼ目くらまし数値と言える。

 国民は自分らの置かれている荘園がどんな貴族たちの囲い込みでできているかを知らずに、ただ平準化された(と錯覚している)大地の上に明日の活計をおぼろに立て続ける。そして相変わらず「他に適当な者がいないから」と言い訳しながら、自公系保守政治家たちに貴重な一票を献上することをやめない。それが自ら墓穴を掘る行為とも知らずに。

 ところで沖縄では3月31日現在

218人が入院(重症者20人、中等症71人)、入院療養等調整中130人

宿泊施設療養中146人、自宅療養中203人、療養中患者計697人

死亡128人、累積感染者数9482人

名護市387人(解除374人)、北部保健所管内125人(解除122人)

那覇市2904人(解除2681人)

 因みに31日の新規感染者数は111人となり2か月ぶりに100人を超えた。変異株の感染実況は未だ判然しないが、第4波の兆候は明らかと言えそうだ。今後数値的な拡大傾向に歯止めがかからないのであろう。

 この国の政官業学のコロナマフィア化(=東京オリパラ、GoTo他)は既に様々な局面で顕著になってきた。安倍・菅ラインの悪質さは到底理念的度量衡に耐えない。日本会議保守主義集団の体現である自公政権は、日本の近代化の歴史に最後の総仕上げの悪あがきを演じて見せるつもりだろう。

 先ごろの国会で、福島瑞穂議員が行った辺野古埋め立て用土砂の糸満残存遺骨埋没地帯からの調達に関する厚労・防衛省への抗議と是正促しは、この国の国策の明らかな精神的不健全さを突いて余りあるが、それ以上に、ここまで沖縄を蹂躙してやまない所謂2+2官僚レベルの日米外交(朝貢)システムは必ず歴史が断罪し去ると信じる。但し、日本国民の大方の世論が、沖縄を除いて国策に取り込まれ物事に正しい目を向けずに見過ごしている在り様は、同じく、どこかで厳しく裁かれていると感じないわけにいかない。

 既に第4波は来ている。国民はこの安倍・菅ラインによって自分たちが確実に死地へ追いやられると覚悟せねばならない。むざむざ殺されるのが嫌なら、......(つづく)

詩の終わり この国の悲劇的な不健全国家展開

 徳川260年の幕藩体制は、黒船来航という外圧に遭って上を下への大騒ぎを繰り返し、国内不平反乱分子との確執の中、何ら目新しい方策も講じえないまま、「大政奉還」という政権投げ出し無責任体質を曝け出したまま「王政復古」に取って代わり、その実質的終焉を迎えた。この時代の政治理念の主流を占めたのが「尊王討幕」であり、要は支配者の首のすげ替えという手段による新たな階級社会の構築に他ならない。それが、主に権力者の政治責任仮託媒体と化した「天皇中心主義」の国家主義であり、皇国史観という名の神話的不合理を戴した国家観であり、土着せざる非民俗的な国体という砂上の楼閣であった。

 つまりこの旧体制の終わり方は、歴史的に必ずしも本質的なものではないということが、その後(明治大正昭和)のこの国の歩みの中に明々白々な史的実態を示していた。これを正統派歴史書は「跛行的近代化」とはっきり書いている。しかしこの国の近代・現代を論じるにあたって、かかる歴史的性格に対して明確なアプローチをする本質的な試みを、敢えて為すべき必要性に言及する論陣は実際希薄なのだ。そしてそのことが、この国の、発育不全な実態を根扱ぎで変える流れを作り出せない、重大な質点となっていることは言うまでもない。

 この国の近代化は、先ず「封建遺制」の打破と門戸開放というアイテムのクリアから始められた。「封建遺制」の打破とは大きくは旧階級的疎隔解消にあり、「四民平等」理念の実践として具体化する。門戸開放とは、「鎖国」の打ち切りによる「世界」的視点の開眼であり、諸外国との外交という政治アイテムを付加することだ。

 ところが、かかる「近代化」の実質的担い手は、(農工商に属した平民なる民衆でなく)旧支配階級である武士階級の中の下層部分(上層階級の中の不平分子としての下級武士)であり、元々支配階級である公家出身の知的特権階級に属する者たちであった。これがこの国の近代化の「跛行性」を(精神的にかつ感性的に)彩色し、改革の本質的な矛盾として徐々に確実にその病根を浸潤させていったわけで、その急先鋒が伊藤博文の手になるこの国の「官僚機構」(民意から乖離する官尊民卑のエリート集団)であり、その後の帝国日本を破滅への道に導いた(と同時に現在も残存し続ける)実質的責任媒体と言える。

 よくいうように、明治維新は残念ながら市民革命ではないし、民衆的なエネルギーの発露でもなかった。つまり民衆的幼弱さ(国民が国の歩みに実質的な関与をせず、また、国の中で主体性を持たないということ、あるいは奴隷的従属性に否応なく押し込められること)を孕みながら、国として展開するこの「跛行性」がこの国の近代化を悲劇的不健全さに落とし込んだということになる。

 明治新政府は、この国の決定的な資源不足、市場の狭隘、という持たざる国の実情に鑑み、おのずと資源の確保、市場開拓という必要性に迫られ、日清(1892年)・日露(1904~1905年)戦役など通じ軍事力を増強拡大化しこれを背景として、殖産興業、富国強兵の矛先を先ずは琉球島嶼と大陸半島に向け、琉球分捕り(処分1872年)と韓国併合(1910年)を実践した。この流れは思潮としてのちのちの大陸進出侵略に繋がっていく。この国の覇権主義第一次大戦後の経済危機(恐慌)、強国化の過程での欧米との確執など悪条件が重なり、次第にアジア的孤立化と枢軸国への接近が顕著となっていく。

 近代化以降、「持たざる国」の悲哀がこの国の資本主義を帝国主義覇権主義に駆り立て、領土的拡張という蛮行を通じて枢軸国共々破滅への一途をたどったわけだが、それでは如何なる仕儀がこの国をまともな道に立たせ得たのか?何故それがこの国にはできなかったのか、向後それはできることなのか?その実質的主体者である国民民衆に関し、柳田邦男は、民衆的絶望を論う識者に「私は希望はあると思う」とだけ言っていた。(ここまで大雑把に日本の近代史を眺めてみた。勿論私見による雑史に過ぎない。)

 ここで沖縄移住者の筆者は、これに関連して何気に沖縄の事、辺野古問題の事を想起する。国家方針と国民が明らかに対立する事案としてそれはある。そしてみたところそこには多くの場合、国家国策実現手段が、超法規的にあるいは正確には脱法的に為されていると断じなければならないものがある。民衆的絶望を規定事実のように扱って「国が何をしても日本では特に沖縄では!決定的な大衆運動は起こらない」とばかりなし崩しに強行されているということ。その現実が何年にもわたって持続されかつ今も盛んに進行しているということ。

 何年にもわたって....ということは、民衆的絶望という風景、環境にもかかわらず沖縄の民衆的意思は変わらず息づき国への抗議、抵抗を続けているという事実を明確に示していると言える。だから沖縄に関してはまさに「希望」があると言えるのだし、歴史的にはガンジーの言うように「愛と真実が必ず勝利する」ということが言えるわけだ。このことは自己内奥の「不安と臆病」(民衆的政治的絶望)との闘いを通してのみ民衆運動は果実を得るという意味になる。何故なら、国家的外圧が目掛けるのは必ず民衆分断であり、民衆が決裂するのはその心内に「不安」を抱き、かつこのまま反対運動に進むことに臆する気持ちが芽生えるからだ。当然国家は論理的筋立てでの国策推進など鼻にも掛けない。日米同盟の在り様を論えばその幻想的な筋立てをすっぱ抜かざるを得ないのだが(沖縄問題はこの国のここまでの在り様から確実に民族問題と措定すべきであろう。従ってその解決手段は琉球独立という一手以外思いつかない)。

 さて、それはさておき今の国会中継を見ていると、総務大臣が自己弁護を先どって、聞かれてもいない自身の行動の予定心証を述べるという、愚かしい過誤を犯していた。事実に対する是か非かという問いに、法的な言い訳になる倫理規定(大臣規範)違反の有無を答えるという過誤だ。その先で必ず聞かれ突かれるだろうと予め自己弁護したわけだが、弁護するというのは国民の疑念の対象に自ら身を置いたという事実に立脚するわけで、そのまま、事実を認めたという意味にしかならない。しかもその後実際にその事実が判明した(文春砲)わけで、その後も幾重にも自己弁護の網を張り巡らして国民の目を欺こうという心根が見え透いていた。

 アベスガイズムの、腐臭に満ちた毒気を体現した三流政治家(三下奴)の誹りを免れまい。安倍・菅内閣通し、その構成員である彼らの保身・権力固執のさがは度し難いレベルに達している。又、官邸に人事権を握られた官奴(奴隷官僚)たちは揃いもそろって醜悪な欲得業務(自身の身分保全だけ目掛ける)を横行させ、全く恥じるところがない。確かにこの国の土性骨は腐りはて、行きつく先の薄闇を予感して民衆的絶望の底深さばかり痛感させられる。これが本土を覆う政治的絶望の惨状の一端だということ。

 再び繰り返せば、自公政権の選挙における得票数は、全有権者数(有効投票数に棄権数をそのまま加えた数)に対して2割強程度の割合でしかない。これに対して与えられた議席数が有無言わさず過半を占めるというのはどう見ても不当で過当であろう。この実質的な支持率を反映しない国会という場で多数決原理をそのまま適用すれば、当然に議決の方向が偏向すると言わざるを得ない。

 この安倍・菅体制では、稟議を尽くさず強行採決の場面が横行している。自公政権側から内部告発的に造反議員がでてもおかしくないのだが、それさえほぼ皆無に近い。かくしてこの国の代議(議会)制民主主義は、(国民を)代議せざる議員たち(議席を過重に得ている議員たちの総体)の恣意的、党派的あるいは私家政治的な政治環境のもとに、自公政権のような保守主義的旧態依然の国政実態がいやがうえにも蔓延ることとなる。

 この国の歴史的展開を眺めると、この国の民は国策の犠牲者以外ではなかったし、今後もその頸木を免れない。先の大戦を歯止めの効かない在り様で経過したのも、かかる現今政治的絶望を無力にかこつのも、どうやらこの国の民の運命とでも形容するしか言い様がない。我々はいつまで、この果てしのない泥沼にのたうつ自身の運命を甘受しなければならないのか?いつまで米国従属の敗戦国縛りに苦しめられるのか。

 大震災も原発事故も原爆体験もコロナ禍も自然災害の猛威も、この国を根本で変えることは出来ないのか?この期に及んで未だオリパラ開催に前のめるこの国は、到底人間の住める国ではない。(つづく)

詩の終わり この国の状況の稀に見る劣悪さ

沖縄県発表コロナ感染状況(3月3日付) 

入院中176人(重症者25人中等症34人)

入院療養等調整中15人、宿泊施設療養中53人、自宅療養中30人 療養中患者計274人、死亡120人、累積感染者数8235

名護市376人(解除368人)、北部保健所管内124人(解除119人)、那覇市2542人(解除2436人)

 当然沖縄でも新規感染者数は宣言前に比べ減少傾向が顕著だが(但し下げ止まりしている感がある)、逆に死亡者数はひと頃に比べると連日のように増加しているやに見える。

 宣言を出した時点と比べて感染状況は大幅に改善しているとする一方、非コロナ病床の占有率の高さや若者の新規感染者数が多いことを理由に、宣言の前倒し解除はしない(22日県説明).....20代が全体の21%で年代別一位

 現今メデア等により我々に伝わる、感染者数が問題の枢要という印象的な扱いの中にありながらも、実際基本にあるのは医療体制の逼迫、医療崩壊・破壊の危機、検査調査実数が不足する変異株の不可測な市中感染ということになるのは既に知られている(既に旧来の株でないこの感染力の強い変異株が新たな感染媒体になっているという)。

 感染者数の増減はその内訳を詳細に分析し傾向をつかみ、適切な減衰対策をしていかねばならないし、そういう意味の厳密な数値的扱いをしないと、いたずらな情報流布による国民意識のミスリードにつながるわけだ。ミスリードは結局は国民生活の不利益を生み国益をも損ねる。現在この国はコロナ禍ばかりでなく様々な国勢上の乱脈な在り様により、国民自身、一種の宙ぶらりんな不安定な立ち位置を余儀なくされているのは間違いない。ミスリードではなくノーリードというが正解であろう。国民にとっては現行国家政府は、まさに国民のためのものでないと思わない訳にいかない。

 IOCJOC、オリ組織委員会自公政権、東京都(知事)、業界、これらがほぼ同様の利権、権益の我執により、コロナ禍という、如何にしても収束方向の見えない重大な危機的要素をほぼ度外視して(コロナの状況に関係なく)、オリパラ強行路線を突き進んでいる在り様は、一方で8割近い(オリパラ中止延期を望む)国民意識や世界の主だったメデアが伝える懸念など眼中にないとでも言いたげで、戦後顕著な日本型資本主義の「非人間的な(国民軽視の)」エゴイズムが透けて見えてやりきれない、と同時に、いまだにパクスアメリカーナの戦争経済主義から抜け出ない国際機関の在り様は、人類の現代的精神的腐臭さえ感じないわけにいかない。逆に言えば彼らは、新たな変異株(種ではない....今回の変異株は、新型コロナウイルスのスパイクタンパクにN501Yという特異的な変異が起こり、宿主細胞への感染力が強くなったという性質の変化がありますが、元来もっていた新型コロナウイルスの基本的特性はほとんど引き継がれておりますので、依然として新型コロナウイルスのままですので、変異“株”と呼称すべき....一般社団法人 日本感染症学会 記)等ばい菌充満の空間でアスリートたちが、後日予定的に健康を損ねる運命ながらも、決死の競技人生を全うしようとすることにまさか「特攻美学」でも見ようというのだろうか?。一般国民が、繰り返される人災的コロナ禍(政府の愚策悪策)にまたしても晒されるという運命も予定されている(としか言えない)。国民軽視のアベスガイズムがここでもその本領発揮、という、我々がかねてから危惧する事態は現実のものになりそうだ。

 ワクチンはいずれにしろこのオリパラなど関係なく今年中に一般国民が接種できるかどうかさえ知れてない。そのワクチンも明らかな予防対策の治験は付与されてなく、感染者が重篤化しない程度の効果しかないらしい。当然副作用の問題もある。大体が、治癒してさえその後遺症に苦しめられる事例が跡を絶たぬらしい。感染することの引き続くリスクは今の防疫体制や予防策又はワクチンなどでは半端な効果しか望めないということでもある。

 つまり我々国民は等しく、いつ何時見舞われぬとも限らない市中感染的な空間の中で、生活生存上明らかに不要不急の国際運動会(オリパラ)決行という「やってみなきゃわからない」レベルの安全保障体制の下に無防備に投げ置かれ、招かれざる海外移入者たちの市中闊歩やら感染原因ばらまき行為をただただ黙って窓越しに眺めるという、報われない2週間をやり過ごすことになる訳だ。それとも(無観客)隔離状態の競技会決行などにどういうメリットが考えられるのか?その間も競技者の感染リスクは必ず想定されるわけで、クラスタ発生もあり得ないことではない。呪われたスポーツの祭典は百害あって一利なしということだ。

 実際、我々には端からこの危機管理無能の自公系日本保守主義政治の堕落ぶりが見えていたのにかかわらず、主に政治的無関心と政治的絶望が合流し、「他に適当な候補者がいない」という理由を正当な主張だとでもいうように押し立てて、行われてきた現行有権者行動により、総論的に棄権行為と無責任行為が醸し出した消極的政治環境が、全有権者数における2割程度の少数派に他ならない自公系議員に過当で膨大な議席数を献上したという真相。つまり、この政治的無関心層と政治的絶望層の棄権行為と無責任行為に対し、このコロナ禍という、差し迫って否応なく自家行動を規制せねばならない事態に鑑みて、政治への積極的参加意思に基づく状況改変の行動喚起が求められるわけだ。

 例えば、例の総務省幹部と東北新社(菅の長男が実質的執行責任者だったようだ)の接待会食付随賄賂案件が、菅首相案件(権力者...官邸人事権への忖度、又はそこから敷衍する官僚の国家的犯罪行為)とも言える内実に満ちていたことは、結局はアベスガイズムなる自公系保守主義政治の汚職体質、私家政治腐臭、金権政治、あるいは強権的恫喝政治を図らずも露呈させ、ここで国民がそれでもこいつらを今後も政界にのうのうと永らえさせるのか?と問われる局面に差し掛かっていることを示している。

 現行自公政権の国政運営は、結局は国も国民も諸共に滅びる道筋にあると断定せざるを得ない。(つづく)

詩の終わり 自公政権の時代錯誤な儒教的封建思想

 去る2013年9月7日、日本国元首相安倍晋三がオリンピック招致最終プレゼンで世界に向け「原発汚水はアンダーコントロールThe situation is under control」と嘯いた結果(事実上の賄賂.も飛び交う中.....竹田JOC元会長)誘致されたまさに曰く付きの東京五輪にあって(この事実を日本の多くの五輪推進者たちは見事に閑却している)、その組織委員会会長が公の場で躊躇いもなく発した性差別にまつわる愚かな本音(男尊女卑)は、この曰く付き東京五輪というものの世界に対する度し難い低レベルな本質をいよましに露呈し、ここから敷衍して(会長自身属する党派である)現行自公政権の在り様が、現代世界の常識や理念にそぐわない(性差別等)甚だ時代錯誤な、異臭体臭芬々たる醜悪な顔貌を晒しているという話ともいえるということ。

 先の大戦における敗戦国日本の、アイデンティティを喪失した戦後の歩みが齎したであろうこの絶望的な精神的現実的状況下、post truth対real truthの日本版が漸くその緒に就いたということになろうか?post truthの流れがその本来低劣な正体を止めようもなく漏出し始めたことにより、本来常識的でさえある質の別流を生じ始めているという印象だ。

 安倍第二次政権以来、この政権に漂っている時代錯誤な儒教的封建思想、言うならば旧大日本帝国的戦前価値観のゾンビ的復活など、今更ぬけぬけと恥じ入ることもなく、既に世界において完全に否定されている彼らの父祖の忌まわしい事跡(侵略戦争)を平然と肯定、礼賛さえし、それを政治的に現代に打ち展べるその厚顔さに、我々は渋面とともに辟易して、同じ大和民族でありながら思わず耐え難く吐き気がするのだ。

 東京オリンピックという、この国にとっては三度目(1941年開催権返上、1964年実施、2020年延期)になる世紀の祭典なるものが、この目の前のコロナ禍にあっては状況的にも非現実性という本質において宙に浮いているという事実が我々に何時までも引っかかるわけで、曲がりなりにも実施される(無観客、徹底した感染予防策の下で)というなら、それはそれで君らが勝手にやればよいという程度の認知段階にある(何としても実施するというなら、それはあらゆる権益、利益を得る者たちの充足を保障するということにすぎない)。

 つまりIOCやらJOC、はたまた現行政権の政権維持と党派的肩入れ、東京都(知事)の成功譚願望等、内在する諸々の利権、権益、私欲が強烈に蠢く中、如何にこのコロナ禍で有為な結果を残すかという一点に全ては掛かっているというわけだ。一方国民にとってそれはなくもがなのことで、それによる功罪は甚だしく不明確だ(むしろ不利益だ)ということは別の由々しき問題となる。

 何故なら我々にとってはいずれにしろ五輪強行での、多くは故知らぬコロナ禍の感染拡大、拡散、重症化加速や後遺症等病態の一層の深刻化、内外からの移入者による市中感染的な無差別被害波及、変異種ウイルスの新たな蔓延、一般国民向けの、結果的に多岐にわたる明白な財政的損失など、これらが決して生じないということが保障されぬ限り(既に国民的被害は尋常を超えている)、何をかいわんや、オリンピックどころでない現状に変更はないのだ(復興アピール五輪というキャッチフレーズくらい現実にマッチしないものはないし、1964年時の戦後復興アピールともまるで次元が違う)。

 一方では、少なくとも安倍晋三という一国の宰相が世界に向けて大ウソをかました事実から、日本国が国家として民族として負うべき世界へ向けた精神的代償は、東京五輪開催権返上以外、今の自公政権下では到底払いきれない根深い棘としてある。それは結局そういう指導者を選んだ我々自身の問題となってツケが回ってくるのだ。

 全ては彼ら自公系右傾化グループが空しい願望として史実改竄し、修正し偽作する大日本帝国の罪としてある戦争時代のことに帰着する。そしてそれは恐らく戦争行為だけに限局した問題としてあるわけではない。また敗戦という事実にだけその結果的表象が集中することもない。我々は、我々自身の問題として、戦後のこの国の歩みが明らかに示している、恐らくは破滅と堕落への道に他ならなかったはずの日本の近代化の、その本質を、残酷に、我々の血肉から抉らねばならないということになる。

 何故この国には何時までも儒教的封建思想が根深く残存し続けるのか、男尊女卑、官尊民卑。延いてはアジア蔑視、対中対韓意識、国連勧告にある琉球民族ネグレクト、脱亜入欧、対欧米劣等意識。こうした複合心理は通常なら誰にでもあるありふれた作用と考えられるが、民族として国家として、あるいは権力者の通底心理としてあるものだとすれば、最早個人の問題を超えて公的に取り扱わねば済まない深刻なものだということになる。

 しかしながら我々は人種差別で事件が絶えない欧米の在り様にも同様のものを感じないわけにはいかない。ヒトラーは欧米人の根深い反ユダヤ心理に付け込んで彼の残虐な排他的優生思想を実行できたともいえる。一方、彼らの反ユダヤ心理は逆に言えばユダヤ人の選良性、あるいは優秀性、に対するかれらのコンプレクスが底にあるともいえる。これは例えば日本人の対中対韓意識にもみられることで、歴史的には日本の国としての生成、展開の過程には中国朝鮮なしには語れない経緯が大きく確実に横たわっている。言ってみれば大陸と半島の存在がなければ抑々日本という国は成り立たなかったはずなのだ。欧米の宗教的文化的歴史の根底にユダヤ教から出たキリスト教が関わらないわけがないというのも明らかに言える。更に言うなら、人類の根源はアフリカでありその祖はアフリカに発した類人猿に他ならない。言わば人類の母はアフリカ系人種のわけで、その人類的母胎を否定しこれを虐待する白人はおのれの出自を恥じるできそこないの餓鬼にすぎないわけだ。米国の黒人差別問題は、人類史的にはどうみても退化現象としか言えない。同様に日本の儒教的封建思想はまさに精神的後退事象というわけだ。

 それでも歴史は進む。その先に何があるかも知らないままに。しかし時間はどこまでも相対的であり、解決に時間がかかっても解決による真実の青天白日招来はこれを補って余りあろう。儒教的、ということは勿論儒教そのものではなく、それが醸す封建思想が問題となる。あらゆる不平等、不公平、なし崩しの現状維持、矛盾だらけの見切り発進、社会的不正義の不当な横行、などなど、全ては前時代の腐った残りかすであり、排除すべきはこいつらだ。(つづく)

詩の終わり コロナ禍という自然界の警告に対して人類が対応すること

 沖縄は1月31日時点で

入院中359人(国基準重症者39人、中等症143人)

入院・療養等調整中104人、宿泊施設療養中132人、自宅療養中164

療養中患者計759人 死亡退院90

累積感染者数7585人  (沖縄県発表)

 因みに本島北部名護市(の数値では

累積感染者数348人(解除者291人)、北部保健所管内では

累積感染者数122人(解除者111人)、那覇市では

累積感染者数2340人(解除者2182人)

 宮古島市では1月に入って27日までに168人の感染が確認されている。同市の26日までの直近1週間の新規感染者数は84人で、人口10万人当たりで151・11人に達した。都道府県別で全国1位の東京都は25日までの直近1週間で56・03人で、東京の約3倍に上っている。(琉球新報記事)

 我々には、この国でこの新型コロナが一体向後どうなっていくのかさっぱりわからないという状態にあり、第三波襲来以降いよいよ深甚な不安と恐懼、どっちつかず(国が発するメッセージの薄弱さのせいで)の不安定を甘受せざるを得ないような状況になってきている。医療崩壊、医療壊滅などという深刻な影響を醸す文言も飛び交う。今、国(や自治体)から出されている限定的緊急事態宣言は、様子見で2月7日を睨んでいるが、どうやら「掛け声ばっかり」で収束の目途も立たぬままずるずると延長される気配が濃厚らしい(検査数との比較にない感染者数の増減を無作為に出す報道も後を絶たない....東京都は偽収束傾向を演出してないか?)。

 飲食関係からの感染が、その感染者の家族への感染、家族の周辺接触者の感染、接触者からの感染拡大と数珠つなぎで起きており、又、無症状、軽症者の自宅療養における家族間感染、検査してない隠れ感染者の、活動経路における市中感染、市中感染による経路不明の感染拡大、そして変異性ウィルス感染者による市中感染など、今のこの国のコロナ対応社会体制の、ほぼダダ洩れ状態に置かれた感染実態が浮き彫りになり、自助共助公助(菅語録)などといういかにも単純に過ぎる言葉の羅列が、如何にこの国の度し難い真相を深刻にも覆い隠しているかがわかる。聞こえてくるのは、率先、事の処理に対応して適切にかつ真剣に動くべき代議員たちの、余りに真逆な言動の数々だ。我々は、いかにも苦境に立たされている我々自身の境遇に何とは知れず不平不満が募り、国会議員たちのほぼ満額で手にする歳費の半分でも国民に還元すべきと、思わずにいられない。「給料泥棒」などという侮言も出てくる始末であろう。

 公助から見られた自助(自ら助ける....「天は自ら助けるものを助ける」というが)というものは基本あり得ない(公というのは天でも神でもなく人であり、しかも主権者から見ればどこまでも従、公僕にほかならない)。公に対して言えば「自ら助ける」のはプライバシーの領域で、公はあくまで外側からこれを扶助、補助する立場に置かれる。つまり、菅の言う自助に始まる列言は、最初から明確な公助が厳然とあって成り立つべきもので、言ってみれば公助共助自助が正しい並べ方だ。しかし、アベスガイズムの目指すところからすると、彼の言っているところは、国民主権を排した「国家主義」そのものを言葉巧みに言い換えたものと解される(お前たちがおのれの分を弁えて大いに努力するなら我ら公は少しばかり助けてやらないでもない、と言っている)。

 「最終的には生活保護がある」という菅の放言は、残念ながら彼の本音であり、国民全員が厳しく制限された国営事業(生活保護法)により選別され、残余は「死刑」に近い放逐の対象となる。これが彼の「優生思想」であり、彼の対コロナ無為無策、あるいはGoToなどは巧まれた国家規模の国民選り分け作業の始まりだ。どう転んでもこのコロナ禍によりまずは中小零細企業の淘汰が事実上確実に進捗し、財閥、大企業、富裕層、保守系政治集合に利する企業だけが生き残る。勿論同時に高齢者・病弱者がコロナにより狙い通り弾かれ、無症状軽症者が多い(不逞な感染媒体そのものの)若年層が主体となって現行年齢形成構造体を逆転させる(自公政権を支持する世代層)。

 日本経済と社会保障に関して、人口減少社会少子高齢化社会における将来の社会保障の持続困難性を指摘したうえで、企業の生産性向上が絶対に必要であると繰り返し主張している。特に技術革新や海外展開に対応できる人材が乏しく、最新設備の導入にも限界がある、日本に過剰な数がある中小企業が生産性低下の大きな要因だとし、そのために最低賃金を引き上げて経営力と競争力がない中小企業を淘汰・統合するなどの政策を行うべきであると提言(デービッド・アトキンソン)....菅の心酔する理論

 恐ろしい話だが、冷静に見ているとそのように解釈できると、今の日本の国の在り方に納得するのだ。思えば安倍政権の長期の狂気じみた在り様は、かかるコロナ禍などのパニック媒体を利用してどさくさ紛れに私家政治を実現しようという流れだったとしか思えない(病気を隠れ蓑にコロナ禍の責任逃れで姿を消した)。菅に至っては、コロナ禍を勿怪の幸いに、弱者(中小零細企業、高齢者、病質者)淘汰による財閥復活、大企業を中心とした経済力と生産性向上により一気に(旧)大国日本を世界に覇する目論見だ(この宰相の冷酷な片言は決して答弁下手程度の話ではない)。

 序に言えば菅はポロっと「国民皆保険」の見直しという流れを口にした。もし皆保険でなくなれば貧者は的確な対症医療を受けることができなくなり、今なら生き延びうる生命がこぞって失われるという話だ。これも「優生思想」に通じるのであり、コロナに限らず、一切の治癒可能な病変に罹患する人々を確実に見殺しにすることだ。得体のしれない上層上流人種群が生き残り、ヒトラーナチス・ゲルマン優秀民族並みに第三帝国を現出し、辛うじて生き延びた弱者貧者下層下流人群を隷属させ、絶対的階級制度のもとに君臨統治する、これが彼らの目指す未来の日本国に他ならない。但し菅が狂熱的に国家主義を信奉し、ヒトラーに次ぐ近現代史上2人目の凶悪な独裁者ぶりを可能にすることなど俄には信じられない。世論調査は確実に菅を放逐する方向へ向かっているようだ。しかし、コロナが去ったらどうなるか?おのれに直接危難が降りかからぬ限りこの国の民は、「元の田沼恋し」並みにどっちに転ぶかわからない、というのが歴史的事実においてはっきりしている。つまり先の大戦の惨禍から学ぶことなく、戦後自公政権のような非民主的な政治媒体を無批判に受け入れ、今日の憂いを招いたところからもわかろう。

 現代資本主義社会の趨勢は、功利主義と優生思想により弱者淘汰、トリクルダウン的トップダウン方式のおこぼれ僥倖のみが民主主義の担保として付加された、完全な貴族社会ヒーラルキーを構築すべく雪崩を打って向かおうとしている。

 しかし、このコロナ禍は我々の前に体制側の本質的綻びを少しばかり開陳して見せている。そして黙っていればその災禍は我々自身に必ず残酷に確実に決定的に襲い掛かり(大震災豪雨被害原発事故の事をゆめ忘れるな)、全てを跡形もなく奪い去ることが明らかになりつつある。

 コロナ禍など、こうした自然災害、自然がその脅威を示し、手の付けられない猛威を振るったとき、人類はそれがほぼ大過なく過ぎ去ることを希いつつも確実に甚大な深い傷跡を残すことに呆然とする。しかしながら人類は、こうした深刻な災害を通して自然が教えている、深い哲学的な意味にはさほど関心を払わない。一方、天然痘撲滅などに成功した人類は、現代人の過半を有為に罹患させる悪性新生物に対して決定的な局面を迎えるには至ってなく、そしてこの度の新型コロナには一年近く有効打を打ちあぐんでいる(今のところ我々はこれが速やかに収束し元の生活が戻ることなど殆ど想像できてない)。疫学上の問題だけがあるのでなく、それに対する我々の生活形質が異常なほどゼロベースで回復可能性を減じて居るという現実が見えている。つまり、高まりつつあった未来志向型の生活形質が明確に原初的な改変を迫られたという経験だ。そこに依拠していたあらゆる生業が生命線を絶たれるという経験。国家規模で救済すべき実態に国家機構が全くと言っていいほど対処できず愚策に走り、愚劣で恥知らずな面貌をひけらかしたまま、「なるようにしかならない」とでも言いたげに責任放棄してやまないのだ。

 さて人類はこの期に及んで、与えられた精神の革命という契機に際し、どのようにしてその実際の着手に至るのだろうか?

詩の終わり コロナ禍を死地と捉えてこれを超える 3

 post truthは、第二次大戦後の戦勝国連合(主に米国)が獲得したはずの恒久的永遠不滅?の帝国(パクスアメリカーナ)において、約70年ほどの時間経過のうちに必然に浸潤されずにおかなかった社会的「膿」の満を持した発現であり、それは主に西側陣営の、とりわけて米国と日本で顕著に見られた印象的に永続的な現象であり、そしてこの現象は、明確に、国民自身が(日本の有権者にあっては、ほかに適当な者がいないからと言って)選んだ保守系の最高権力者たちの脳内にさながら寄生虫のように蔓延り(加えて元々あったネトウヨ体質が暴れだし)、漏れ出し、あっという間に所かまわず周辺を汚染していった。

 この現象は事実上パンデミック化した。そして古来、常識化し良識化したはずの自然発生的理性(コモンセンス)の一切がこの現象の前にその無力さ加減をいやというほど曝け出し、非常識、非良識、反知性、非論理、非倫理という病原菌を、時や場所を選ばずにまき散らされるはめになった。

 尤も我々は、彼らの正体の、大小問わず劣悪な事例をいくらでも数え上げることができる。そしてこれを何気に彼らへの攻撃材料とするのだが、残念ながら、むしろその害毒を益々分散、拡散拡大するに寄与しただけで、結局日本の多くの若者が早々に敗北宣言し尻尾を巻いて現状維持に転がり込んだように、国全体がお手上げな話になり終わろうとしていたのだった(当然これには権力者たちの恣意や私家政治傾向による在来統治機構へのノンコンプライアンスも大きく関与する)。

 この、社会現象上のほぼ不可逆とも言える劣性な構成分子の跳梁跋扈は、自然界の脅威としての現行コロナ禍を先取りしたかのように、手の付けられぬ伝染性を帯びかつ我が物顔で、さながらこの世の春を謳歌せんとするに至ったのだが、人間界でのこのパンデミックの元凶は、自然界の途轍もなく圧倒的なパンデミック(今やそれに対する予防法も治療法も暗中模索の中で、エビデンスや治験の報告も手うすなまま実験的に施されようとしている)の前に、その劣性を糊塗する間もなく、手の施しようもないパニック状況(gotoもアベノマスクも、手遅れな後手後手の対応も、全てこれを示している)に落ちていったといえる。それが例えば現在のこの国の国家政府の、自公政権の、アベ・スガイズムの在り様だ。米国の在り様もトランプといううつけの独断専行が国民を危難に落とし込んでいる(大統領選でこの男の見せた明らさまな醜態は、パクスアメリカーナの終焉をにおわすに十分な出来事に違いない)。

 コロナ禍にも見る、現象としての現代は今、何らかの根本的な意味の変更を人類に差し迫っているようだ。人類は、この災禍の暫くは恐らく相当長期な影響のもとに生き延びるしかなく、一過性の災難で元の状態へ復帰するという、これまでの当たり前の対応ではありえない、何か次元を異にする哲学的な課題を突き付けられていると思わないわけにいかない。

 コロナ禍の現代を如何に生き、如何に死ぬか、それは結局人は如何に生き如何に死ぬかという、古来常にあった哲学的な根本的な問いに今や明確に答えを出さねばならないという意味合いにさえなろう。華厳の滝に投身する哲学青年の「曰く不可解」という答えは今の現代人には許されない。答えがなければ生きていけず、かつ降ってわいた自然死(病死)を仕方のない運命として受容する以外にない(しかもある種の死はほぼ突然死に近い例を示している)。勿論如何なる死も運命には違いない。勿論誰も答える義務などないし、答えなくとも何となく幸運な恩恵が形質を問わず齎されぬとも限らない。

 産業革命は市民革命を基礎に近代史に決定的な意味の変更を開始させた。それは専ら勢力的にも資本主義社会の世界的な隆盛を誇ることであり、その社会矛盾の改変を企図した共産革命もまた明らかにこの社会が生み出したものだと一応言える。19世紀から20世紀へ、更に今世紀にわたって、資本主義社会の優位性はここまでまさに揺るぎない鉄壁の牙城を現出させていた。一方当然だが社会矛盾という、文明史的に必ず付きまとう問題性は決してこの社会から消えようとしない。

 コロナ禍が引き起こしている世界的な変化をどう捉えるかという問いかけは、こういう文明史の文脈の中で人類に課せられた歴史学的課題になろうとしている、と思われる。

 我々日本人は、2011年3月11日に襲い掛かったあの大震災と原発事故にあってこうした課題にまともに直面すべきだったし、その後この国の至る所で引き起こされた人災ともいうべき豪雨被害やその他の自然災害においても、国を挙げて何らかの問いかけをしなければならなかった(しかし災禍を齎した者を裁くべき司法は愚かにも沈黙したし、誰もかかる根本的な対応を必至と見るものはいなかった)。今の為政者はこのコロナ禍でさえ何となく近いうちに収束するだろうと安易に閑却して倦まない(その危機意識のなさが、国民の未曽有の苦難を招いていると、今では誰でもそう思っている)。

 自然界は人間界?に対して何を伝えようとしているのか。自然界の脅威は我々の生死に関わる次元で待ったなしの対応を強いている。

 物質文明の極め付けは人間の「エゴ」を炙り出し、煩悩から発する欲望の充足をその知的狡猾さにおいて限りなく計算高く密に、微に入り細を穿つ精度で深め、遂には明らかな優生思想(エゴイズムを完全実現するために弱者、劣勢者を極力合理的に排除する思想)の浸潤が多くの社会的上層部(知的上流階級、富裕層、ブルジョア政治家など)の脳漿に支配的に見られるにいたった。かつて第三帝国を目論んだナチスヒトラーが実際に試みたあの思想だ。してみればヒトラーという悪の権化が奇異な怪物性で突出していたと勘違いしたのは我々自身なのか?

 こうした優生思想が社会矛盾の根本解決を企図する運動一般と明らかに敵対する結果、ナチス的秘密警察的国家主義的な政治勢力の、一見合法的でありながら悪辣で狡猾な脱法行為による合目的的世界制覇はほぼ確実に現代史を凌駕するに至ったと思われる。あの当時彼ら自身が目を覆って見せたはずの第三帝国の惨状(アウシュビッツ)を、印象的には人々の耳目から巧みに覆い隠し、知らず知らずに固定化された格差における諦念(抵抗不可能なユダヤ的奴隷的あきらめ)を植え付け、ここに難攻不落のヴォルフスシャンツェ (Wolfsschanze)を設えることに成功した。ヒトラーの野望はこうして死後76年の現代においてその実現を見た、というわけだ。

 菅首相にみるこの優生思想は、コロナ禍の今明瞭にその正体を曝け出している。彼が企図する明確な人民淘汰の手管はコロナ禍を利用した弱小集団(中小零細企業や社会的弱者)の自然的な廃滅という結果だ。GoToも手遅れ気味の対応も、殆ど全く効果のない緊急事態宣言も全てここに向かっていくための布石であり、誰もそのあからさまな手管に正面切って反論しない今の日本の愚かしさも相まって、彼の企ては実に静かに進んでいる、丁度沖縄に対するのと同じ「粛々と」執行される有無言わさぬ問答無用の政治行為。これは安倍晋三などより遥かに念のいった仕掛けであり、安倍というスケープゴートモリカケサクラ事件を安倍一人の対岸の火事視し、杜撰な検察案件に落とし込んで菅自身は逃げ切りを図る策)さえ織り込んだ、手の込んだ演出だ。

 いずれにしろ、どこから望ましい革命の火の手が上がって、この前代未聞の人為的淘汰の悪行がそのみすぼらしい末路をみせることになるか、我々にとってその反撃の道のりは極めて険しいものになる。今日本国民は、意匠を凝らして登場したナチの亡霊、ゾンビたちの前に、かつて無残に虐殺されたユダヤの民同然の境遇を体験している。望まれるのは、おのが身の不安におののきながらびくびくと行く末を案じる臆病な民にならぬよう、亡霊やゾンビと決然対峙し各自に相応しい身の振り方を講じることだ。コロナ禍は現代人に、人々の心的解放(真実の、新たな、人間的な意味の完全な自由を獲得すること)や、事に当たっての生死を超えた覚悟を要求していると、思われる。この死地は、自然界の人事への悲劇的な襲撃を通して、ある超越する他者が人間に向け、その罪業の裁きを繰り返しているものだと想像したくなる。救いは回心にしかないと。如何に回心するか、それは各自がおのれの精神を駆使して、真に深く内省することからしか導かれないようだ。