沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

詩の終わり 側用人政治で官尊民卑は国勢となった

 コロナウイルスのことは世界的に全く予断の許されぬ状況になってしまった。

 安倍政権の大本営発表は(戦前同様)明らかに数値のマジックや情報操作で終始している(当然同じ穴の小池都政の東京都も同じだ)。つまり、検査体制が駄々洩れ状態(市中感染の実数が雲をつかむようなことになっているーーつまり諸外国並みの検査体制ならいつでもオーバーシュートすべく予定されているということ)で検査実態が感染実態に大きく水を空けられ、(まだぎりぎりのところで病勢を抑え込んでいると喧伝して)事実上、国民に実際の「緊急性」「重大性」といったメッセージを伝えることなく、政治パフォーマンス的に「緊急事態」宣言しただけで、あの見たくもない安倍の、脂下がった老醜ふんぷんの顔を一時間も見せつけられた挙句、ちらほら当たり障りもない平面的な記者質問で早々と切り上げたという話。

 安倍側近今井何某は、この(倫理的にも論理的にも)あってはならない長期政権維持にその官僚的脳髄をフル稼働し、とんでもない化け物国政を現出させた。安倍はこの元官僚の操り人形でしかない。

 簡単に言えば今井何某の頭の中には旧大日本帝国直伝の「官尊民卑」心性がしっかりと根を張り、あの時代の「欲しがりません勝つまでは」と同じ挙国一致体制として国民に限度なしの我慢、臣従を促しているのだが、実際は、あれだけどす黒い醜聞をかました安倍政権を4割以上が支持するという、狂気の奴隷根性を晒しているのが、実に「我慢を強いられた」国民自身なのだ。

 こういう、事大主義的な日本人の国民性(丸山 眞男や朝河貫一が指摘している)をこの側用人ははっきりと熟知している。だから平然と「民主主義」を踏みにじるし「憲法」を破壊してやまない。国民が黙認、目送してしまうことを彼は知っている。モリカケ桜も半ば当然のように忘却の彼方へ追いやってしまうだろう。検察人事などお茶の子であろう。ヒラメ裁判官も。

 さて、沖縄に移住して真っ先に宜野湾海浜公園での「教科書検定意見撤回を求める県民大会」(2007年)を目の当たりにした。同時に名護中央図書館で沖縄関連図書の数々に今更に出会った。大江岩波裁判もあった。筆者が書籍において出会ったのは島津侵攻以来のヤマトゥとの関係史であり、それは連綿と今の基地問題にまで引き続く、大和民族による弑逆の歴史であり、日本史の中では日本人の目に入らないほぼ完全に近く「埋もれた歴史」だった。

 埋もれさせたのは、琉球沖縄を本土内地ヤマトゥとは何気に差別している日本人自身であり、日本国政府と官僚たちだ。移住者の目に、歴史的にもこういう成り行きは、ようやく手に取るように分かってきた。

 思うに、見透かされた国民性に乗じて、安倍の側用人今井何某が「国家主義まがい」の国政を牛耳っている現在、内国植民地扱いの沖縄はしかし、どうやらそうした「国勢」に乗せられることなく国内唯一、何時でも事の是々非々を弁える自治体であり続けている。それは結局この僻遠の地が異種民族性顕著な独自性(アイデンティティ)をいつの時代も持ち合わせてきたからであろうか。取り分けて先の大戦で被った「沖縄戦」の惨禍は、間違いなくこの地を日本国憲法に最も適う非戦の地にした。

 いずれにしろ、今この国はコロナ禍にあって、同時に、最も戦前に近い危うい国勢下に置かれている。それは側用人政治に極まった「官僚主導国家」そのものの亡国的玉砕コースを辿る道だ。極めて理不尽な信じがたい話だが、安倍晋三はどうも「無責任国政」を「決める政治」と称して実行することで、結果諸共に滅びることも辞さないほどに、私家政治の完遂を目指していると見える。このような政治屋に国政を任せて安穏とあるいは汲々とその日暮らしを続けていいわけがない。

 怒りを忘れた人民に救いはないし、未来もない。やられっぱなしの奴隷身分がいつまでも続く。耳目をかすめ横溢するくずのような情報が、連日メデアマスコミジャーナリズムに現れては消え、消えては現れるが、役に立つ情報は限られている。分析総合し、認識判断するには余ほど目を凝らし、自身の感性、悟性、そして常識に照らして正確な取捨選択を過たず繰り返して、物事の本質を明確に洞察しなければならない。事が終わった後では泣きを見るだけだ。と、自分に言い聞かせているが.........(つづく)