沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

詩の終わり 警世 

 安部一派は詐術的にこの国を、ファシズム(全体主義)的独裁の旧大日本帝国並み超国家主義国家(天皇を中心とする国家体制)へ導こう(後戻り)としていることは明らかだが、そのことは自民改憲草案に確かに示されている事実であって、こちら側が殊更に決めつけ、煽りこき下ろす、言葉による攻撃に終始しているというものではなく、政権の様々な具体的な政治的行為に如実に立ち現れている、可視化されたありのままの実態として既に多くの国民には認知されている(安保法制強行採決モリカケ桜醜聞、コロナ対応人命軽視施策、検察庁法改正法案等)。

 しかし、にもかかわらず例えば朝日新聞世論調査では内閣支持率拮抗という奇怪な現象を見せつけている(20代~40代の支持高が際立つ)し、大方のそれが同じような傾向を示している。簡単に言うとこれは、戦前日本と同じように、時の権力が強権的強行的な国政国策を断行(自称「決める政治」)すれば、たとえそれが如何なる悪政、誤った施策、あるいは目に見えて悪辣なものであっても、権力側が一切意に介さず繰り返しこれを行えば不思議に国民はこれに従い、剰えこれに同調さえし、むしろ応援団化するという、この国の人民の一般的な在り様を踏襲しているものでしかないのかもしれない。

 つまりこれはこの国の民の習い性にほかならず、全く驚くに足らない事象として見ておく必要があるようだ。一方に偏す、これを烏合の衆という(事大主義)。自らの意見を持たず、自分の頭で考えない人群のことだ。あるいは雰囲気、空気、風景などからしか物事を見ない、到底悟性の機能の正常な訓練を経た成心ある大人の在り方ではない(精神年齢12歳の面目躍如)。しかしながら、所謂世論調査なるものの胡散臭さも指摘しておかねばなるまい(設問の仕方、実質的世論根拠の希薄)。特にこの政権にあっては数値のマジックが至るところで横行している(コロナ検査数の希少性と実質感染者数の隠蔽)。

 いずれにしろ、こういう政治実態を生み出す公職選挙に際して、いつも目に見えてはっきりするのは、有権者総数という分母に対して浮かび上がる獲得投票数という分子の、対獲得議席数における比率的矛盾性だ。単純に言えば、投票率に見る棄権行為の多寡が、国民内実の問題の深さを表わしている(世論調査の傾向と軌を一にしている....見たところあの数値的怪奇現象は政治的無関心層の徒な跋扈以外考えられない)。どうみても実質2割強(有権者全体の)の支持しか得られてない自公政権に、あれだけの膨大な議席が与えられているという現状だ。これが権力の恣意的post truth的使い方に発現する今の安倍政権という権力亡者の砦に結果している(安部強権政治の基本は多数決原理一辺倒であり稟議内容如何を問わない強行採決だけが生きている)。

 かように現行選挙制度は明らかに「主権在民」実質に挑戦する悪法だ。極論を言えば投票率が5割台の選挙は、国民平等主義からしても明確に無効といえる(棄権行為という消極的政治行為の拾い上げ)。

 安部は無能だがその側近たる今井なにがし等元官僚は、「官尊民卑」を地で行く旧大日本帝国官僚の血筋そのものであり、その国民愚弄の手法には「悪賢さ」と「狡猾さ」、そして何より「無責任体質」が目に見えて立ち現れる。この無責任体質は日本人の系譜上歴史的なものであり、万世一系天皇氏族があらゆる権威の絶対的頂上を形成しているために、全ては仮託的に皇室に丸投げされて終わるのが特徴だ。それが幕末明治維新の在り様であり、現今「象徴天皇」制度の本質である。

 安部は決して諸共に滅亡する特攻政治を厭わない、本質的に無責任なこの国の代表的存在であり、国民は自助努力でのみおのれの命を永らえ得ると覚悟しなければならない。大津波も大地震も巨大台風もゲリラ豪雨も、大規模土砂災害も、その猛威から国は我々を決して助けてはくれないものと知ることだ。(つづく)