沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

詩の終わり この頃のコロナ禍の日本の実相

 2020年8月15日、今年75回目の敗戦記念日も何時ものように何気に通過し(取り立てて猛省するでもなく)、官僚作文棒読み安倍晋三、広島長崎哀悼の辞も相変わらずのていたらくで、そういえば、先ごろの分科会専門家の「(コロナ感染が)沖縄は下火」という驚くべき発言には呆気にとられたというのが本音であろう(逆に言えば重症化、感染老齢化、医療ひっ迫が進んでいる最も深刻な状況を印象的に過少に評価しているということになる)。(既に立ち消えたが)米軍内感染兵士の沖縄移送という話(ふざけ切っている)、県内宿泊施設を感染者用に米軍が借り上げるという話(どこの国の話だ?)、糸満まで行って砂利を採集し、辺野古に搬送投入するという話(この国は何を目指しているのか?)。

 日本国沖縄・広島・長崎に対して如何に鈍感な人間でも、こういう無神経な話に触れて神経的にいい気はしないはずだ(と思うが)。敗戦記念日や広島・長崎のことは、この国が根本的に堕落している度し難い本質を抜きには考えられないことのようだ。一方、沖縄に関して言えば、待ったなしの「琉球独立」実効的考察と県民意識の統一的政治的集約という課題に究極し、多くは歴史に学ぶところの「ナチスユダヤ」という事実上の戦略的対照実例に足場を据えなければならないといえる。どういうことか。同一国内一民族に対する弑逆事件ということだ。

 かのユダヤ人は何故むざむざガス室での集団抹殺に無抵抗で付き従ったのか(時代の雰囲気やゲシュタポの残虐さからある程度想像がついただろうに)。あるいはユダヤ人ばかりでなく、ロシア(ソ連)人捕虜、ロマ、東欧諸国民、精神病者、身障者、多くの社会的弱者たちが、マイノリティが、さしたる抵抗もなく自殺するでもなく、何故ああも大量に殺されていかねばならなかったのか。あのコルベ神父は何故集団蜂起を為しえなかったのか。ガンジーはこの不可解な傾向に疑問を投げかけ、集団で殺される前に集団で自殺したら少なくとも「名誉」や「尊厳」は守られただろうに、と独言した。まるで沖縄戦の集団強制死を連想させるが、ニライカナイ思想が生きているとすれば、生死を超えて琉球マブイ(魂)が人間の尊厳を立命する行動へ苦も無く駆け付けるような気もされる。

 例の相模原の大量殺戮者にあるのは、正確に言えばヒトラーナチス思潮の馬鹿正直ななぞりであり、優生思想まがい(優越する種のあいまいさがある)であり、淘汰主義、優勝劣敗の社会的自然全面肯定、あるいは功利主義、能率主義、排他主義ということになる。一方で、彼の中にあるはずの個人における「罪と罰」意識(彼の内省が習慣的に行われていたかどうかはわからないが)に対し、アベイズム的「やっつけ仕事」(=身障者の殺戮排除)が優先されたのは何故か、戦時中参謀が(やってみなきゃわからないと言って)「見切り発車」したのと同じように、どこか諸共自滅の玉砕主義(滅び去ることへの感傷的礼賛)がまるで当然のように勝ち誇っている(まるでそこに美学があるかのように)。彼は何に絶望していたのか?数年前の秋葉原のそれも同じような心理的傾向を感じる。永山則夫の場合、どうだったか。「(彼らには)この先がない」という閉塞感に押しつぶされるときの社会からの脱落意識が、人間としての真空地帯へ彼らを押し出す。社会的モブはかくして一塊の主張媒体となって飽くまで感覚的に感情的にposttruth的に、通例の社会的常識を破壊し良識や倫理性、論理性までいともやすやすとドブに捨てて顧みない。まさにこの今の政権がそういう風に見える。

 さて現実に戻ればこの未曽有のコロナ禍で、この国の経済は底なしの恐慌的末路を予感させるのだが、この国が滅亡するということはどういうことか?我々から見るとそれは社会保障担保(年金や生活保護)を根こそぎ失い、今までの生涯蓄積保険資材を一切失うことなのかと見まがうのだが、国はその国体を維持するために(世界に身売りしてでも)それらを決して手放さないと歴史は伝えている。

 ところで先の大戦で無様に敗北した結果、大日本帝国は欧化主義(脱亜入欧)と爬行的近代化(階級的上部構造-武士や公家という支配階級による上からの改革)という、むしろ宿命的な矛盾総体として、欧米的あるいは汎アジア的処断の餌食となった。その矛盾実態(戦争のはらわた)は戦時において国内はもとより太平洋近縁のアジア各地でその正体を余すところなく曝け出した。日本会議歴史修正主義が大戦における「無様な敗北」という受け入れがたい事実に眼をつむり、この国の近代化の過ちを等閑に付し、児戯めいた史実遊びの挙句に自虐史観をただすとばかり大真面目にやっているのは、最早死せる大和民族のゾンビ的復活という戯れ事にほかならない。

 我々現代日本の民は、封建的未開(前近代)の中でも(鎖国という閉鎖社会ながら)図らずも花咲いたやに思われた大和江戸文化や、それ以前の古代中世における精神的所産の数々をいかにも誇らしく顧みないことはない。それは当然のことで、如何に中国や朝鮮渡来の文化的換骨奪胎(猿真似文化)だとしても(漢字を崩した平仮名や漢字から一部を切り取ったカタカナなど)、我々の肉体や精神に宿るオリジナルな悟性の働きが醸した、香気溢れる、滋味豊かな遺産には違いない。しかし、巷間の下世話な物狂いとは何の関係もない。

 安部欺瞞による「アンダーコントロール」が世界を騙し手に入れたはずの東京オリンピックが大方中止に追い込まれるのは目に見えている。インフルエンザ並みに扱われて収束しようというコロナ禍の日本版は、「姥捨て山」と化した適者生存のコンセンサスにより、徐々に感染者数には無反応となり高齢者重症化と持病持ちのハイリスクをかこちながら、「それでも死ぬ人は少ない」とばかりGoTo花盛りの(但し国民は及び腰だ)エコノミックアニマル街道まっしぐら、元来た道へ取って返す時代錯誤をやめようとはしない。(つづく)