沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

詩の終わり 何をしてもどんな状態でも全て信用ならずしてはならない安倍晋三

 安倍晋三は、第一に端から信用ならないし、決して信用してはならない為政者(どうやら幼時よりその性格は嘘が先行するようなものだったらしいし、嘘をつくのは政治家の特権であるかのように信じている節がある)で、このことを先ず前提しないと国民は結局自ら墓穴を掘る愚を犯すことは目に見えているし、ここまでの流れでもそれははっきりしている(但し彼はその側用人たちの操り人形で、彼自身に有効な政策遂行の意思があるとは到底思えない)。しかし、ヒトラー並みにパフォーマンス主体に嘘八百を並べて平然としているこの宰相は、最後の最後まで国民を愚弄し、特攻的玉砕美学に没頭する以外何もしない危機管理無能政治家で、沖縄などは真っ先にその犠牲者(GoToなんちゃら)となって孤軍奮闘させられている(あの菅の言いぶりはこの政権の沖縄侮辱を地で行っていた)。

 コロナ禍は恐らく医学者等識者が先ずもって正確に把捉できてないし今後何らか確定的にさえ扱え得ないものとしてあると思われる(当然ながらワクチンのエビデンスは得られてない話だ)。分科会の専門家がくだくだ述べ立てるところを聞いていると、(政権忖度や官邸藪にらみは別としても)政策や国民向けに明確な方向性を与えるものでないことは素人にもわかる。何よりその変異性であるために今後弱毒化するのかそれとも強毒化するのかなど、誰にも予測がつかないものと言わざるを得ないわけで、「専門家の意見を踏まえながら」と必ず前置きする担当大臣の目指すところがどうしても、事態を(今やあり得ない)収束方向印象付けや軽症者無症状者割合の過大な強調により、実際の窮迫性から国民の目をそらし、経済活動の加速化を促すように持っていこうとしているとしか見えない。これは政治的な拙速さを生み、結果的にはばくちに近い性質がある。国民の命が天秤にかけられるに等しい。

 我々国民がその主権在民の実を上げんとする真っ当な生き方に立ち戻ろうというのなら、先ずは己の身は己で守るという最も基本的で重大な基軸に足場を置かねばならない。要は今やこの国は一切国民側に忠実に立つことはないということであって、はっきり言えば人民より国家が先であり、国民は滅私奉公が義務とさえ思われていて、それは自民党憲法草案にその通り書かれている。戦時国民は天皇の赤子、大君の辺にこそ死なめとばかり負け戦に駆り立てられ玉砕していったのだった。今、この政権が目指しているのはそういう風な国家国民関係であり、安倍晋三などは特攻隊の死にざまこそ国家にとっての国民の最高の在り方であるとはっきり考えている。

 ところで安部一派がいう国家とはどういう国家か?それはさておき、日本会議等の思惑思潮が一定の塊となってこの国のあらゆる階層にいきわたっていることは、少しく懸念されるところだが、実際はその勢力は国民の2割程度に過ぎない少数派であり、実質的にはマイノリテイにほかならない(ある意味カルトといっていい)。ただ問題はヒトラーナチスもまた初めはそうだったので、あらゆる手段を用いて多数派工作するのは目に見えている。だから危険であり、国民は最初から心してかからねばならなかった。

 さてその首魁たる安倍晋三首相が8月28日、在位歴代最長宰相の異名をかっさらって痛々しく病体をかこちつつその座を降りたわけだが、ここで我々が考えなければならないのは、アベイズムというものの本体たる現首相がかようにその権力を放棄しても、それは形を変え人を変えてなお生き続けるだろうということだ。

 何よりアベイズムとはナチズムのように、この国の憲政史上稀な悪の砦、総本山であり、偶々安部氏の名を冠しただけで、何時でもスガイズム、イシバイズムになろうというものだということ。何が言いたいか?現行自公政権の元では日本国憲法の最大の枢要である主権在民は有名無実化するということ。この先の話は推して知るべしだ。(つづく)