沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

詩の終わり 「日本国対沖縄」概論の2

 国基準で重症者26(20)人、中等症者63(68)人、入院療養等調整中16(16)人、宿泊施設療養中15(18)人、自宅療養中18(18)人、療養中患者237(240)人、死亡者41(41)人、累積感染者数2259(2244)人となっている(2020年9月10日沖縄県発表)。()内緑数字は2020年9月9日のもの。https://www.pref.okinawa.lg.jp/site/hoken/chiikihoken/kekkaku/press/20200214_covid19_pr1.html

 第一波収束(新規感染者数0)の始まりは5月初めで、それが7月初めまで持続した。つまり7月以降、上記記録(現在)に至るまで、顕著な増加を見ることとなる。このうち、重症者、中等症者以下療養中患者まで、全ての数値において、7月以降計上された数がそのまま示されている(7月になるまでは現れてなかった数字だ)。累積患者数は2117(2259)人、死亡者34(41)人で、7月以降の数値的な拡大は明白だ。因みに第二波の端緒は県民の海外渡航者や県外からの帰還者だった。そしてGoToトラベルが始まった7月下旬以降、棒グラフの山は急こう配の形状を見せる。如何に政府が黙過しようが沖縄では明確に政策の由々しきミステークが、あり得ない被害状況を作り出したといえる。それは県の観光立県としての立ち位置の難しさを考慮したとしても、県外からの渡航者に制限を掛けえなかったとしても、到底看過できない国の、本質的な意味の安全保障姿勢の欠陥として追究されねばならない事実である。

 こういう場合に立ち至っても菅官房長官は県に対して療養者宿泊施設の確保について図々しくも(おのれらの愚策ぶりを棚に上げて)あり得ない苦言を呈した(彼の自助共助公助スローガンが意味するところ、旧帝国官僚並みに官尊民卑が露骨に示されている)。

 県在住、移住者の筆者に感得されるのは、「日本国対沖縄」という対立図式通りの、権力者の居丈高で不遜な「沖縄いじめ」、その心底に間違いなくある「民族的差別」、であり、延いては国際社会において司法通念上恥ずべき「内国植民地主義(同一国内の一地方自治体に対する自治権破壊行為)」、という印象以外ではなかった。

 この全世界的なコロナ禍にあってさえ「対沖縄」の内容は分科会(沖縄は下火に向かっているという発言)もそうだが到底同一民族、同一国内自治体に対する国家政府の在り様とは思えない。勿論移住者の感じ方を言っているだけで、県民が等しくそう思っているかどうかはわからない。

 安倍晋三の、鼻の先で小ばかにするような脂下がった顔相に比べ、菅義偉ヒトラー内閣のゲッペルスを彷彿とさせる残酷で冷血なものがあるが、国民はその正体、実態について殆ど「奴隷的に」しか知ろうとしない。「奴隷的に」というのは、日本人には馴染みのない表現なのだが、魯迅の「賢人と馬鹿と奴隷」にある「奴隷」のことだ。

 解釈は如何様にも取れようが、国民にはこの三様の様態があり、魯迅が等しくこれらを批判的に扱っていることは見て取れる。つまりいずれの場合も表面的な皮肉以外に在り方に関して本質的に洞察する必要性を示唆している。少なくとも国民は全てこれらの要素でできていて、逃れようもなくそのようにしか在りえず、生きえない。このことが前提だ。

 先ず、全ての国民は「奴隷」であり、何者かに付き従ってその者の言う通りにしか存在せず生きていない。但し彼はこの自分の在り様に何時も不満を抱えている。しかし何故不満なのか、何に対してそうなのかわからないし、何となくわかってても何時も不満を解消することの不可能性にだけ目を向け、ため息して終わるのが常だ。彼はそうして何時ものように奴隷として生活し生存を続ける。時として不満を爆発させるが当然にその場限りだ。この奴隷の在り様の中に「賢人」と「馬鹿」も、いることはいる。(下線部がそうだ)

 魯迅は自国中国の民の閉塞状況に鑑み、啓発の意味でそういう言い方をしている。カフカは「文学は覚醒を促す」と言ったというが、酔いどれる民の目を覚まさせ、より良い生存生活を引き寄せる行動こそ求めたのだった。

 運転教習では人間の運転行為の内容を「認知」「判断」「行動」という分け方で説明している。正しい「認知」つまり覚醒するということからすべては始まり、正しい「判断」を下すことで「行動」の保証が為される。しかしあくまで「行動」することが前提であり、「行動」の一歩手前で終わるのが「賢人」だ。正しい「認知」「判断」をして「行動」するとき、真の救いはある。一方「奴隷」は、奴隷である限り正しいそれらを「行動」として表すことが決してできない。何故なら対象を正しく認知しないし、服従することが習い性となって盲目に生き続けるだけだからだ。

 それでは「馬鹿」とは何だ?これが最も難しい。彼は「奴隷」の不満や現状がすぐさま手に取るようにわかり、「こうすればいいじゃないか」と言って壁をぶち壊すことができる。ドン・キホーテがそうだ。しかし彼は風車という敵に果敢に向かっていくが残念ながら風車は風車でしかない。彼に欠けているのが「正しい認知」であり、彼もまた彼自身奴隷なのだ。正しい認知に至るには?

 先ず驚くのは、安倍辞任の報が流れた途端、この内閣の支持率が低迷から一挙に跳ね上がって、元の木阿弥に戻ったことだった。しかし飽くまで人が奴隷以外ではありえない以上この現象は実に馬鹿正直に国民の実態を示唆しているといえる。よくよく実相を眺めると、この国の民はどうやら魯迅の時代の中国人と変わりがない「前近代」の民なのだ。

 封建時代が「前近代」だから、今国民は封建時代の民といえる。あの時代、百姓は生かさず殺さず、商人は卑しい身分、支配階級である武士のみが人間だった、陽尊陰卑で皇室や公家を埒外に置き、.....

 差別、ヘイト、誹謗中傷、ネトウヨ的画策で抑え込み「自助」(自己責任)を強いて政治的責任に頬カムリし、捏造、修正、捻じ曲げで国民の目をくらまし、アンダーコントロールという嘘を平然とかまして世界を欺き、自己利益と仲間優遇で悪の砦をぶちあげ、「ナチスの手法」に倣ってゲシュタポ親衛隊が暗躍する警察国家、司法も立法もなぎ倒して「行政の長」が君臨するそういう国家、これはまさに前近代そのものだ。

 確かに旧支配階級が、上から行った改革としての明治維新以降、国民はその権利の「奴隷的身分」という幼弱な地盤の元、ついにどこまでいっても主体性を確立できてなかった。現人神に仕え、大君の辺にこそ死に場所を求め、滅私奉公、挙句は国の敗残という瓦解、そして連合国支配の継続、今もって他国の軍隊に好き放題勝手し放題の治外法権に甘んじている。日本人は、いつになったらこうした境涯に楔をぶち込もうとするのか、自分を奴隷と見做して憤激するのか、...........

 沖縄は、今後ともこの国の中でどうしても異種の異族的な扱いを受けること間違いない。沖縄はここまで明らかに「奴隷」であることを強いられている。「救い」を求めるなら、これが沖縄の人が判断と行動のために認知する前提となる。(続く)