沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

詩の終わり コロナ禍を死地と捉えてこれを超える 2

 現行自公維系政治権力集団が醸し出している政治上の問題(コロナ禍に適宜対応できてない機能不全状態、乃至安全保障思潮の決定的不備、モリカケサクラ等安倍案件と菅関係に顕現した人格的道義的退廃及び法的無責任実態)の中で考えてみると、我々はここ数年のアベ・スガイズム、あるいは世界的現象であるpost truthも含めトランプ旋風などに対して、それらの劣悪な形質(論理性、倫理性、理念性における明らかな劣化)に対して過分で不相応な(それらに対し必然必要のない)関心と、過剰ともいえる批判や非難を継続して繰り返してきたように思われる(勿論その過剰は安倍・菅体制自体の過剰な悪辣さ狡猾さに由来する)。

 当然に他の重要案件に対する実質的な言及、追究不足を懸念する声も聞こえてくる。しかし「万機公論に決すべし」という議会民主主義の原則からすれば、何事も軽重問わず稟議を尽くすのが本来的な在り方だ。

 さて、それらの形質は、今や世界や日本国民共通に近い内容でわかられてきているかもしれない(安倍の敵前逃亡、菅政権支持率激減やトランプの失墜、海外メデアのまっとうな政権批判などはそういう印象を与える)。但し分析・総合に係って確たるアベ・スガイズム等否定の決定版をぶち上げたのかと言えば、やはり依然何となく心許ない在り様でしか示されてない(コロナ禍で益々見えにくくなり始めている?)。

 こういう感覚は、アベ・スガイズム等の有する常識を超えた自己保存習性(我執)、執念深い権勢維持本能(政治エゴ)に我々が辟易させられているという苦々しい思いが関わっている。一方では、これに加担するかのように、有権者の政治意識や時流感応力が低下しつつあるようだ(しかしこれもこの国の国民性と関係している)。

 我々はモリカケサクラ事件といった安倍晋三案件やこれへの菅義偉の関係性を、残念ながら勧善懲悪や決定的断罪という範疇では扱えない、何か奇天烈な時代背景の中に埋もれるようなものとしてしか処理できないように予感してしまう。だから、時の権力に取り込まれて国家運営上分立できてない(分立を阻害されている)司法権の驚くべき脆弱さに絶望的な現状を悲嘆するという結果に終わるのだ(安倍晋三一人立件できない司法は、最早この国の終焉すら印象させる)。

 尤も我々は、20世紀初頭から数十年にわたり世界に吹き荒れたファシズムやナチズムに対するハンナ・アレント的解釈を何となく踏襲して、それらをいかにもありふれた劣性の表象(モブ化)として身近に引き寄せ捉えるべきだと安易に考えていた節がある。つまり我々はアベ・スガイズム等を20世紀的劣悪現象の敷衍という線上で何となくあいまいに転がしていたに過ぎないということ(いずれは遠からず滅亡し消え去るだろうと)。だが安倍・菅は果たして目に見えてステレオタイプな悪の権化であろうか、多分そうではない。彼らはその権力に対する執念深さで悪存在と言えるが、しばしば暴露される劣性的な正体において「小物」であり、「小悪党」であり、歴史に良くも悪くも深く刻まれる何者かであることはないと。

 (世界の放縦ともいえるネット的環境の中では情報の錯綜と同時に我々の脳髄の中も意外にケアレスミス的な混とんを囲い込んでいるかもしれない)。

 さて、1981年以来日本人の死亡原因のトップは癌である(約3割)。また3人に2人は生涯のうち何らかの癌に罹患するとも言われる。だが癌の発生メカニズムは依然杳としてつかめてないのが現状だ。これに上乗せするように、今、変異性感染症コロナウイルスが俄かに世界を震撼させて止まない。そしてその防御方策を世界中が躍起になって探しているが一向に画期的なものを示しえてないし、ワクチンとはいえ予防でなく、せいぜいが症状緩和、重症化抑制しかできないものだといわれる。ある意味、コロナはひと頃の癌に対するのと同様な運命を歩き始めている。つまりこれに罹患した瞬間、恐怖と絶望の淵に落とされる等、禁忌的扱いにまで落ちるという非現代的なミステリー化けしている。

 日本国民にとってかかる死病とつきあうに現行自公政権のような政治媒体を選択したのは大いなる不幸であったし、現に奈落に落ちる思いを味合わされているのは間違いない。まして嘘と隠蔽、ごまかし、政権維持能力以外の脳を持たない安倍・菅体制の恐るべき長期存続を許したのは返す返すも残念なことだった。

 トランプ出現に見る戦後世界体制の中の米国のイデア的凋落は見るから悲惨なものがあり、パクスアメリカーナの没落は時を置かず現実のものになりつつある。恐らくはこの落ち気味の強国に追随し手を結び、併存以外の道を模索しない日本国もまた、近い将来に無残な結果を用意していることは疑いない。

 例えば沖縄における日本国の誤った施策の数々が何らかの代償を払わされるだろうと危惧されるのだが、それは専ら、この国の戦後体制の思考停止した在り様からの当然の帰結であって、今更後悔しても始まらないし、辺野古などは恐らく前代未聞の国策誤謬として「国恥」の代表になり了すであろう。現在辺野古大浦湾の埋め立てに伴う環境破壊は、此処を含む奄美琉球島嶼一帯が自然遺産登録を目指すという真逆の企てに対して、正当な何らの理念的解答も持たぬまま、人間的愚かしさという既定路線を突き進んで止まない。これも近代日本がむしろ運命的に背負った国家的民族的な宿痾のなせる業であり、今アベスガイズムの場当たりな従米主義ばかりが突出しているように見えるだけで、実際は歴史的に不可逆なこの国の民族的性向そのものが因となっているのだ。

 いずれにしろ今喫緊の重大な支障はコロナ禍にほかならず、ここを死地と捉えて死活問題とし、生きるか死ぬか、生き延びるのか、成り行きに任せるのか、最終的には個人の問題に究極する。当然我々の人生の最終局面として如何に生き、死を迎えるかということにすべては収斂する。

 パスカルは神の存在の有無は我々自身の賭けの問題だとした。「全体と虚無の中間存在」で、永遠に浮遊し震撼する脆弱で儚い葦のような我々は、さながら葦のようにうそうそと「考える」だけのものでしかなく、しかも考えることにおいてのみ霊長類たる人間である存在性が見える。デカルトも同じことを述べる。ここに立つなら、この神の前の小さき者は「知られざる者」「知りえないもの」として我々の生と死を見つめることになろう。

 我々が超えるのは、生きるためにほかならず、此処に留まることが意味のないことだからであり、我々の思考、行動、認識が生きる運動の中にしか意味としてあり得ないからであり、「不安と臆病」に苛まれて出発できない愚を拒否するが故だ。生はかくして死を超え、運動体として永遠に神の場と時において人間であり続ける。