沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

詩の終わり コロナ禍を死地と捉えてこれを超える 3

 post truthは、第二次大戦後の戦勝国連合(主に米国)が獲得したはずの恒久的永遠不滅?の帝国(パクスアメリカーナ)において、約70年ほどの時間経過のうちに必然に浸潤されずにおかなかった社会的「膿」の満を持した発現であり、それは主に西側陣営の、とりわけて米国と日本で顕著に見られた印象的に永続的な現象であり、そしてこの現象は、明確に、国民自身が(日本の有権者にあっては、ほかに適当な者がいないからと言って)選んだ保守系の最高権力者たちの脳内にさながら寄生虫のように蔓延り(加えて元々あったネトウヨ体質が暴れだし)、漏れ出し、あっという間に所かまわず周辺を汚染していった。

 この現象は事実上パンデミック化した。そして古来、常識化し良識化したはずの自然発生的理性(コモンセンス)の一切がこの現象の前にその無力さ加減をいやというほど曝け出し、非常識、非良識、反知性、非論理、非倫理という病原菌を、時や場所を選ばずにまき散らされるはめになった。

 尤も我々は、彼らの正体の、大小問わず劣悪な事例をいくらでも数え上げることができる。そしてこれを何気に彼らへの攻撃材料とするのだが、残念ながら、むしろその害毒を益々分散、拡散拡大するに寄与しただけで、結局日本の多くの若者が早々に敗北宣言し尻尾を巻いて現状維持に転がり込んだように、国全体がお手上げな話になり終わろうとしていたのだった(当然これには権力者たちの恣意や私家政治傾向による在来統治機構へのノンコンプライアンスも大きく関与する)。

 この、社会現象上のほぼ不可逆とも言える劣性な構成分子の跳梁跋扈は、自然界の脅威としての現行コロナ禍を先取りしたかのように、手の付けられぬ伝染性を帯びかつ我が物顔で、さながらこの世の春を謳歌せんとするに至ったのだが、人間界でのこのパンデミックの元凶は、自然界の途轍もなく圧倒的なパンデミック(今やそれに対する予防法も治療法も暗中模索の中で、エビデンスや治験の報告も手うすなまま実験的に施されようとしている)の前に、その劣性を糊塗する間もなく、手の施しようもないパニック状況(gotoもアベノマスクも、手遅れな後手後手の対応も、全てこれを示している)に落ちていったといえる。それが例えば現在のこの国の国家政府の、自公政権の、アベ・スガイズムの在り様だ。米国の在り様もトランプといううつけの独断専行が国民を危難に落とし込んでいる(大統領選でこの男の見せた明らさまな醜態は、パクスアメリカーナの終焉をにおわすに十分な出来事に違いない)。

 コロナ禍にも見る、現象としての現代は今、何らかの根本的な意味の変更を人類に差し迫っているようだ。人類は、この災禍の暫くは恐らく相当長期な影響のもとに生き延びるしかなく、一過性の災難で元の状態へ復帰するという、これまでの当たり前の対応ではありえない、何か次元を異にする哲学的な課題を突き付けられていると思わないわけにいかない。

 コロナ禍の現代を如何に生き、如何に死ぬか、それは結局人は如何に生き如何に死ぬかという、古来常にあった哲学的な根本的な問いに今や明確に答えを出さねばならないという意味合いにさえなろう。華厳の滝に投身する哲学青年の「曰く不可解」という答えは今の現代人には許されない。答えがなければ生きていけず、かつ降ってわいた自然死(病死)を仕方のない運命として受容する以外にない(しかもある種の死はほぼ突然死に近い例を示している)。勿論如何なる死も運命には違いない。勿論誰も答える義務などないし、答えなくとも何となく幸運な恩恵が形質を問わず齎されぬとも限らない。

 産業革命は市民革命を基礎に近代史に決定的な意味の変更を開始させた。それは専ら勢力的にも資本主義社会の世界的な隆盛を誇ることであり、その社会矛盾の改変を企図した共産革命もまた明らかにこの社会が生み出したものだと一応言える。19世紀から20世紀へ、更に今世紀にわたって、資本主義社会の優位性はここまでまさに揺るぎない鉄壁の牙城を現出させていた。一方当然だが社会矛盾という、文明史的に必ず付きまとう問題性は決してこの社会から消えようとしない。

 コロナ禍が引き起こしている世界的な変化をどう捉えるかという問いかけは、こういう文明史の文脈の中で人類に課せられた歴史学的課題になろうとしている、と思われる。

 我々日本人は、2011年3月11日に襲い掛かったあの大震災と原発事故にあってこうした課題にまともに直面すべきだったし、その後この国の至る所で引き起こされた人災ともいうべき豪雨被害やその他の自然災害においても、国を挙げて何らかの問いかけをしなければならなかった(しかし災禍を齎した者を裁くべき司法は愚かにも沈黙したし、誰もかかる根本的な対応を必至と見るものはいなかった)。今の為政者はこのコロナ禍でさえ何となく近いうちに収束するだろうと安易に閑却して倦まない(その危機意識のなさが、国民の未曽有の苦難を招いていると、今では誰でもそう思っている)。

 自然界は人間界?に対して何を伝えようとしているのか。自然界の脅威は我々の生死に関わる次元で待ったなしの対応を強いている。

 物質文明の極め付けは人間の「エゴ」を炙り出し、煩悩から発する欲望の充足をその知的狡猾さにおいて限りなく計算高く密に、微に入り細を穿つ精度で深め、遂には明らかな優生思想(エゴイズムを完全実現するために弱者、劣勢者を極力合理的に排除する思想)の浸潤が多くの社会的上層部(知的上流階級、富裕層、ブルジョア政治家など)の脳漿に支配的に見られるにいたった。かつて第三帝国を目論んだナチスヒトラーが実際に試みたあの思想だ。してみればヒトラーという悪の権化が奇異な怪物性で突出していたと勘違いしたのは我々自身なのか?

 こうした優生思想が社会矛盾の根本解決を企図する運動一般と明らかに敵対する結果、ナチス的秘密警察的国家主義的な政治勢力の、一見合法的でありながら悪辣で狡猾な脱法行為による合目的的世界制覇はほぼ確実に現代史を凌駕するに至ったと思われる。あの当時彼ら自身が目を覆って見せたはずの第三帝国の惨状(アウシュビッツ)を、印象的には人々の耳目から巧みに覆い隠し、知らず知らずに固定化された格差における諦念(抵抗不可能なユダヤ的奴隷的あきらめ)を植え付け、ここに難攻不落のヴォルフスシャンツェ (Wolfsschanze)を設えることに成功した。ヒトラーの野望はこうして死後76年の現代においてその実現を見た、というわけだ。

 菅首相にみるこの優生思想は、コロナ禍の今明瞭にその正体を曝け出している。彼が企図する明確な人民淘汰の手管はコロナ禍を利用した弱小集団(中小零細企業や社会的弱者)の自然的な廃滅という結果だ。GoToも手遅れ気味の対応も、殆ど全く効果のない緊急事態宣言も全てここに向かっていくための布石であり、誰もそのあからさまな手管に正面切って反論しない今の日本の愚かしさも相まって、彼の企ては実に静かに進んでいる、丁度沖縄に対するのと同じ「粛々と」執行される有無言わさぬ問答無用の政治行為。これは安倍晋三などより遥かに念のいった仕掛けであり、安倍というスケープゴートモリカケサクラ事件を安倍一人の対岸の火事視し、杜撰な検察案件に落とし込んで菅自身は逃げ切りを図る策)さえ織り込んだ、手の込んだ演出だ。

 いずれにしろ、どこから望ましい革命の火の手が上がって、この前代未聞の人為的淘汰の悪行がそのみすぼらしい末路をみせることになるか、我々にとってその反撃の道のりは極めて険しいものになる。今日本国民は、意匠を凝らして登場したナチの亡霊、ゾンビたちの前に、かつて無残に虐殺されたユダヤの民同然の境遇を体験している。望まれるのは、おのが身の不安におののきながらびくびくと行く末を案じる臆病な民にならぬよう、亡霊やゾンビと決然対峙し各自に相応しい身の振り方を講じることだ。コロナ禍は現代人に、人々の心的解放(真実の、新たな、人間的な意味の完全な自由を獲得すること)や、事に当たっての生死を超えた覚悟を要求していると、思われる。この死地は、自然界の人事への悲劇的な襲撃を通して、ある超越する他者が人間に向け、その罪業の裁きを繰り返しているものだと想像したくなる。救いは回心にしかないと。如何に回心するか、それは各自がおのれの精神を駆使して、真に深く内省することからしか導かれないようだ。