沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

詩の終わり 自公政権の時代錯誤な儒教的封建思想

 去る2013年9月7日、日本国元首相安倍晋三がオリンピック招致最終プレゼンで世界に向け「原発汚水はアンダーコントロールThe situation is under control」と嘯いた結果(事実上の賄賂.も飛び交う中.....竹田JOC元会長)誘致されたまさに曰く付きの東京五輪にあって(この事実を日本の多くの五輪推進者たちは見事に閑却している)、その組織委員会会長が公の場で躊躇いもなく発した性差別にまつわる愚かな本音(男尊女卑)は、この曰く付き東京五輪というものの世界に対する度し難い低レベルな本質をいよましに露呈し、ここから敷衍して(会長自身属する党派である)現行自公政権の在り様が、現代世界の常識や理念にそぐわない(性差別等)甚だ時代錯誤な、異臭体臭芬々たる醜悪な顔貌を晒しているという話ともいえるということ。

 先の大戦における敗戦国日本の、アイデンティティを喪失した戦後の歩みが齎したであろうこの絶望的な精神的現実的状況下、post truth対real truthの日本版が漸くその緒に就いたということになろうか?post truthの流れがその本来低劣な正体を止めようもなく漏出し始めたことにより、本来常識的でさえある質の別流を生じ始めているという印象だ。

 安倍第二次政権以来、この政権に漂っている時代錯誤な儒教的封建思想、言うならば旧大日本帝国的戦前価値観のゾンビ的復活など、今更ぬけぬけと恥じ入ることもなく、既に世界において完全に否定されている彼らの父祖の忌まわしい事跡(侵略戦争)を平然と肯定、礼賛さえし、それを政治的に現代に打ち展べるその厚顔さに、我々は渋面とともに辟易して、同じ大和民族でありながら思わず耐え難く吐き気がするのだ。

 東京オリンピックという、この国にとっては三度目(1941年開催権返上、1964年実施、2020年延期)になる世紀の祭典なるものが、この目の前のコロナ禍にあっては状況的にも非現実性という本質において宙に浮いているという事実が我々に何時までも引っかかるわけで、曲がりなりにも実施される(無観客、徹底した感染予防策の下で)というなら、それはそれで君らが勝手にやればよいという程度の認知段階にある(何としても実施するというなら、それはあらゆる権益、利益を得る者たちの充足を保障するということにすぎない)。

 つまりIOCやらJOC、はたまた現行政権の政権維持と党派的肩入れ、東京都(知事)の成功譚願望等、内在する諸々の利権、権益、私欲が強烈に蠢く中、如何にこのコロナ禍で有為な結果を残すかという一点に全ては掛かっているというわけだ。一方国民にとってそれはなくもがなのことで、それによる功罪は甚だしく不明確だ(むしろ不利益だ)ということは別の由々しき問題となる。

 何故なら我々にとってはいずれにしろ五輪強行での、多くは故知らぬコロナ禍の感染拡大、拡散、重症化加速や後遺症等病態の一層の深刻化、内外からの移入者による市中感染的な無差別被害波及、変異種ウイルスの新たな蔓延、一般国民向けの、結果的に多岐にわたる明白な財政的損失など、これらが決して生じないということが保障されぬ限り(既に国民的被害は尋常を超えている)、何をかいわんや、オリンピックどころでない現状に変更はないのだ(復興アピール五輪というキャッチフレーズくらい現実にマッチしないものはないし、1964年時の戦後復興アピールともまるで次元が違う)。

 一方では、少なくとも安倍晋三という一国の宰相が世界に向けて大ウソをかました事実から、日本国が国家として民族として負うべき世界へ向けた精神的代償は、東京五輪開催権返上以外、今の自公政権下では到底払いきれない根深い棘としてある。それは結局そういう指導者を選んだ我々自身の問題となってツケが回ってくるのだ。

 全ては彼ら自公系右傾化グループが空しい願望として史実改竄し、修正し偽作する大日本帝国の罪としてある戦争時代のことに帰着する。そしてそれは恐らく戦争行為だけに限局した問題としてあるわけではない。また敗戦という事実にだけその結果的表象が集中することもない。我々は、我々自身の問題として、戦後のこの国の歩みが明らかに示している、恐らくは破滅と堕落への道に他ならなかったはずの日本の近代化の、その本質を、残酷に、我々の血肉から抉らねばならないということになる。

 何故この国には何時までも儒教的封建思想が根深く残存し続けるのか、男尊女卑、官尊民卑。延いてはアジア蔑視、対中対韓意識、国連勧告にある琉球民族ネグレクト、脱亜入欧、対欧米劣等意識。こうした複合心理は通常なら誰にでもあるありふれた作用と考えられるが、民族として国家として、あるいは権力者の通底心理としてあるものだとすれば、最早個人の問題を超えて公的に取り扱わねば済まない深刻なものだということになる。

 しかしながら我々は人種差別で事件が絶えない欧米の在り様にも同様のものを感じないわけにはいかない。ヒトラーは欧米人の根深い反ユダヤ心理に付け込んで彼の残虐な排他的優生思想を実行できたともいえる。一方、彼らの反ユダヤ心理は逆に言えばユダヤ人の選良性、あるいは優秀性、に対するかれらのコンプレクスが底にあるともいえる。これは例えば日本人の対中対韓意識にもみられることで、歴史的には日本の国としての生成、展開の過程には中国朝鮮なしには語れない経緯が大きく確実に横たわっている。言ってみれば大陸と半島の存在がなければ抑々日本という国は成り立たなかったはずなのだ。欧米の宗教的文化的歴史の根底にユダヤ教から出たキリスト教が関わらないわけがないというのも明らかに言える。更に言うなら、人類の根源はアフリカでありその祖はアフリカに発した類人猿に他ならない。言わば人類の母はアフリカ系人種のわけで、その人類的母胎を否定しこれを虐待する白人はおのれの出自を恥じるできそこないの餓鬼にすぎないわけだ。米国の黒人差別問題は、人類史的にはどうみても退化現象としか言えない。同様に日本の儒教的封建思想はまさに精神的後退事象というわけだ。

 それでも歴史は進む。その先に何があるかも知らないままに。しかし時間はどこまでも相対的であり、解決に時間がかかっても解決による真実の青天白日招来はこれを補って余りあろう。儒教的、ということは勿論儒教そのものではなく、それが醸す封建思想が問題となる。あらゆる不平等、不公平、なし崩しの現状維持、矛盾だらけの見切り発進、社会的不正義の不当な横行、などなど、全ては前時代の腐った残りかすであり、排除すべきはこいつらだ。(つづく)