沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

この国の終わり 戦後日本を完全否定する常識とは

 当時「事件」と呼称された1970年昭和45年11月25日にあった自衛隊市谷駐屯地での出来事は、大正と昭和の交(大正天皇は1926年大正15年12月25日に崩御し、その時点で昭和元年ともなっている)の一年前に出生した作家三島由紀夫(平岡公威 1925年大正14年1月14日生)にあっては丁度満45歳の時、つまり昭和時代をまさに時系列で生きた人物として象徴的な「時代の子」という存在の、現場存在証明なる意味合いさえ醸し出して、死後満50年(半世紀)を経た今にしてむしろはっきりと、この人物の言動につき正確に抽象化(歴史的評価を付すということ)すべきであり、明確な「理念の検証」という遡上に載せるべき在り様を示し始めたと勝手に思っている。

 この人物に対する巷間のあらゆる粉飾じみた伝説奇譚の類を一切取っ払えば(その中には「天皇」さえ入らないことはない)、思うにこの極めて常識的な考えの持ち主(というべきと思う)は戦後日本という国の在り様を真っ先に、完全に否定し尽くした、戦後最初で最後の行動的(極めて限定的にだが)思想的存在という位置づけなのではないかと思料する(歴史的評価は「大塩の乱」並みとまでは言えないのだろう)。

 当時米帝国主義的戦争経済主義が正義の警察のような企てを世界中に展開していたのだが、高坂 正堯の所謂「現実主義者の平和論」ばりの吉田ドクトリンにより、正確には臨時的な「軽負担国防策」から復興経済主義が主流となり、池田勇人の「所得倍増計画」以降の高度経済成長政策が戦後日本を世界2位の経済大国に押し上げていたころ、「カソリズム対コミュニズム」なる鉄のカーテンによる冷戦が世界の東西を分断し、米国はじめに西側陣営から日本は極東における防共の要と位置付けられ、警察予備隊(のち保安隊、自衛隊へ)に始まる「逆コース」が際立つようになっていった。

 戦後処理としては明らかに一方に偏したサンフランシスコ講和条約締結(交戦国であった中国<中華民国中華人民共和国>とソ連、およびインド・ビルマが加わっていない)にはほぼ同時に「日米安全保障条約」なる軍事同盟的規約が付加され、日本は名実ともに多面的に西側陣営に組み込まれた(独立回復とひきかえに日本が選んだ日米安保体制によって、戦後日本のあり方が規定されることになり、懸念されたさまざまな問題がここから始まったともいえる、と言われる、)。この講和条約は日本の独立を謳う意味合いが込められたが、沖縄・奄美諸島小笠原諸島はこの時点で独立国日本には属さない、信託統治処遇を受けることとなった.......特に沖縄は1972年まで米国民政府の統治下におかれ、その後返還成っても基地自体は完全に据え置かれたし核密約も存在した。

 ここで少しく沖縄についていうならば、その問題の根本的標的は「天皇制」、乃至日本国に在ってただ一人特殊的地位にある人間の存在ということになり、沖縄に関しては、その最も中心的な、戦後体制への波及効果の原点が戦後すぐに昭和天皇の発した「天皇メッセージ」だと言わねばならないということ。

 筆者は移住者だが、約15年を閲した沖縄移住生活の過程で触れた「沖縄問題」、沖縄に関して本土に住する日本人が忘れてならないいくつかの根本的な問題につき、全く虚心に顧みると、どうしてもこの昭和天皇メッセージが、今の沖縄問題の大元を現実的にしかも現憲法には背反する実質(日本国憲法では天皇は国政に関する権能を有しない)で形成している、と結論付けざるを得ないのだった(結局あらゆる沖縄問題の根本はこの地だけが現行日本国憲法の適用を受けてないということにある)。

 言わば沖縄を基地公害で苦しめている現行米国の指導者たちは、かつてその言動により沖縄島嶼を異国の軍隊に売り飛ばした、何の権限もない昭和天皇の意向(天皇メッセージ)を、後付的におのれらの都合のいい解釈で、今もって現代日本のていのいい人質にして倦むことがないということ(ハーグ陸戦協定違反実態)。但しそれよりも許しがたいのは、例えば辺野古につき米国側意思よりはるかに強度に、日本の2+2外務防衛官僚たちが不可思議な思考停止をして、どこまでも辺野古唯一に凝り固まっていることだ。この概して筋の通らない官僚レベルのあり様は、戦後日本の矛盾に満ちた国柄の実態を象徴するものと見做さねばならない。

 一方沖縄問題から離れてあらためて日本国本土の在り様を具に眺めれば、戦後70年以上を経過した段階でほぼ戦争の影は伝承の域に入り始め、逆コースを辿った戦後日本の矛盾即合一(?矛盾そのまま)の反論理が臆面もなく大手を振ってまかり通り、先の大戦の敗戦に大きく依拠した(かもしれない)現憲法の法精神に対して、三代目ドラ息子たちのあからさまな居直り強盗(歴史修正主義)が頻発する世になった。これが、現今アベ・スガイズムの堕落しきった、度し難く醜悪な政治現象といえるのであり、その薄っぺらで執念深い権力的エゴイズムは「狂気に刃物」の譬え通り、総体的に無責任に国民を死地へ追い込んで平然としている、一種の非人間的な澱んだ下水路の塵芥の寄せ集めにほかならない。

 三島が完全否定した戦後日本の狂った行進が行き着くところ、こうした、取り返しのつかないひねくり回しに終始する、下劣な衆愚政治に堕したわけで、その「愚かしさ」はこのコロナ禍では「衆」にとって明確な死活問題になるのであろう。三島があそこで直に訴えた相手は、残念ながら既に総中流階層化した軽薄な、ある意味現状に満足しきって「総白痴化」した戦後日本という似非民主国の国民にほかならず、その行動は明らかにドン・キホーテの風車攻めと表現せざるを得ない。しかしドン・キホーテに見る「高邁な理想主義」が日本国や日本人にあってどういう扱いを受けるかは、当時の内閣総理大臣佐藤栄作の感想「気が狂ったとしか思えない。常軌を逸している」に表れているのかもしれない。

 それにしても、戦後日本がここまで露骨で節操のないまでに従米隷属を骨肉化するとは三島由紀夫も想像しなかったであろうか。少なくともこうした無様な姿の国の在り様に絶望しないほうがおかしいということ。この国の民は、最早事大主義的にしか反応しないことがわかってしまった。ただ我々はどこかで民衆に希望を見ている。コロナ禍は、こういう希望を何となく現実にあり得ると思わせる動きも見せている。当然国家政府の情けなさは全く別問題で、旧態然の官僚機構とともに何とかしなければならない。現在の国会議員の与野党含めた議員足らざる実質は、到底素直に容認できない。彼らが我々国民のためにまともに仕事をしていると思えない現実はここにきてどんづまりになった。

 沖縄もまた、1972年以来徐々に本土化し、翁長元知事が超政治的に糾合しようとした「オール沖縄」は再び空しく頓挫しようとしている。翁長氏のそれは決してドンキホーテ的な夢物語ではないと今にして思う。むしろ本土の日本が堕落の極みで、氏の正論に全く馬耳東風のていを隠せなかった。恐ろしい現実がそこにある。(つづく)