沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

詩の終わり 思考停止の官僚的差配と没落への道

 現状米国大統領選挙が、史上最悪の泥沼合戦(敗残兵の無駄な抵抗)になだれ込む様相が見て取れるが、事実上バイデン実質勝利は決定的で、トランプの悪あがき(降板後の自身の社会的転落を恐れて)が延いては米国の、ある種の世界的威信を失墜させるのは目に見えている。このような人物を押し戴いた米国民の民度の低さが目に付く。

 但しバイデンだろうが何だろうが、征服民族アングロサクソンの野蛮な軍産複合経済体制やら世界における警察的支配に何の変更もないことははっきりしているのだが、一方世界理念における米国の凋落はいよいよ目に見えて著しい。

 日本の場合、解散総選挙なしにはアベ・スガイズムの裁断は如何にしても先送りとなるわけだが、post truth現象の先行きは世界的にそう長引く様子は見て取れないようだ。所詮post truthは、21世紀の歴史の狭間にほんの数年現れた単なる一泡沫的現象形態に過ぎず、20世紀初頭以降の所謂「本質的な」悲劇的モブ現象に肉薄するようなことは、現代ヒトラー亜流をもってしても、到底歴史的潮流を変えるような巨魁となることなどできまいと思われる。

 悪の巣窟、狼の砦(ヴォルフスシャンツェ)に極まった20世紀最大の暴力組織、一国挙げての犯罪集団であったヒトラーナチスドイツは、今となっては「ファウスト」中のメフィストフェレス的ゾンビ的暗躍とでもいった奇跡的な悪のシンボルにさえなりたがっているが、トランプに見る傾向的な精神的堕落勢力には、史上何時でも息を吹き返すだけの蝟集力が存在し、それはこの日本における近来のアベ・スガイズムにもはっきり見て取れる。ネトウヨばかりか若年層の政治的軽薄さ、壮年層のまともな社会性の希薄など、これを助長する塊はどこにでも立ち現れては、正常な議論の場を引っ掻き回す児戯に休む暇はない。

 菅がその基本的な政治能力やら国家理念の欠如、挙句は答弁能力にさえいちゃもん付けられてる有様では、そのどうしようもない非論理、非倫理、無知蒙昧、がらくたのようなぼんくらぶりがいよいよ手が付けられないほどにあからさまになり、一国の首相として救いようもない仕儀となり了すことが明白になってきた。ここに見る国柄の腐敗、醜悪化、堕落等、実際有権者たる我々日本人が深刻に憂えるべきものとなってきている。彼らを推薦しているのは我々だ。責任はある意味同等にあると思われる。

 そうした中、この国は官僚主導を政治的に是正しようという旧民主党の蠢きのインパクトがここにきて官邸主導に取って代わり、目指されていた政治主導は内閣人事局による官僚その他の人事権掌握以降、ついには官僚等力学的支配並び私家政治強行の狭隘な権力暴走を助長する羽目に陥った。つまりはこれがアベ・スガイズムの正体であり、当然に万機公論に決すべき政治弊害そのものというべきところだ。今回の日本学術会議会員任命拒否事例は菅が墓穴を掘った、官邸主導暴走の一実例であろう。但し、その所為明らかな確信犯であり、力学的には明白な言論弾圧思想統制、戦前特高政治に酷似している。由々しき事態と言わねばならない。但し国民は多くこの事実を正確に認識していないらしい。

 官僚人事はともかく、官僚差配の国家体制の大元のところは決して実質上政治主導にも官邸主導にもなってはいない。そしてこのことがこの国の没落の最大原因となりうることは既に常識の範疇に入る。卑近なところでは沖縄辺野古事案(地域的優位性も軍事的要諦もほぼ皆無な政治的怠慢が引き続く前代未聞の負の遺産)であり、一体に対米従属、従米主義で思考停止した官僚差配の外務防衛路線が主役となっている(民主政権下鳩山首相がのち暴露している彼ら官僚の詐欺に近い行為は明らかな国家犯罪だ)。既にみた通り米国の失墜ぶり、凋落傾向から推しても落ち目の親分に付き従う子分の末路は、巷間の三流ドラマにも定番の在り様である。

 戦前戦中派が主体的な地位を占めていたころの戦後、返還後の対沖縄施策は、主に沖縄戦で過大で悲惨な経験を経た沖縄県民に対する哀惜哀情同情が漂うような在り様で実質的に決められていたやに聞くが、戦後戦無派がこれに取って変わるにつれその様態は真逆の傾向を明白にしていった。挙句は、沖縄県と言えば、高江辺野古に見る国家的弑逆の修羅場として我々には見えている。普天間嘉手納爆音訴訟には最早司法さえ体制権力側に加担する無様な様相が見て取れる。所謂国が自治体を訴えるという奇妙な倒錯した裁判形態がここでは日常茶飯だ。そこには沖縄戦禍にあった県民の過去を斟酌する国の誠実で真摯な態度は微塵もない。これがこの国の現在の国柄を露わにしているのであり、この一事をもってしても到底現行国家政治の民主的健全さはあり得ないものと考えざるを得ない。(つづく)