沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

この国の終わり 何がこの国をだめにしたか?その6

 東京都の新規感染者数がここにきて激減(9月6日968人、7日1629人、8日1834人、9日1674人、10日1242人、11日1273人、12日1067人、13日611人、14日1004人、15日1052人、16日831人、17日782人、18日862人)している。

 沖縄では9月6日167人(死亡2人)、米軍関係7人、8日413人(死亡2人)、10日301人、11日270人(死亡3人)、12日273人、13日140人と、こちらも減少傾向にある。しかし14日284人、15日255人(死亡3人)、16日229人(死亡2人)、17日185人(死亡4人)、18日176人(死亡4人)と決して急減ではない。但し全国的にも減少傾向がはっきりしていて、「波」の振幅が「谷」に向かっていることは間違いない。あるいは下げ止まり?

 一方東京都の重症者数は6日267人(前日+3人)死亡者16人、となっている。7日260人(死亡者16人)、8日252人(死亡17人)、9日251人(死亡者19人)、10日243人(死亡者15人)、11日233人(死亡者17人)、12日230人(死亡者21人)、13日225人(死亡者12人)、14日208人(死亡14人)、15日198人(死亡20人)、16日182人(死亡24人)17日179人(死亡25人)18日177人(死亡20人)。

 東京都のこの、新規感染者数に比べた重症者や死者の数がさほど減らないし、むしろ死亡者数が増加傾向にあるのは何故か?という問いは国民誰しも思うところだろう。簡単に推測するに、重症者の増減揺れはその重症者の中の死者数が関係し(それでも大幅に減っているという感じではない)、死者数のそれは重症者以外に、急激な重症化を経た自宅待機者、宿泊療養者のケアが追い付かずに時間切れする(死亡する)事情を物語っているようだ。これが、入院できずに訪問等診療が追い付かない医療ひっ迫の現状を数値的に示す一例かと。

 つまりこの(東京都の)新規感染者数の減少、全国的減少傾向は必ずしも直ちに医療ひっ迫状況を改善減衰している話ではないということ。

 一方、人心はいかにももろく、減数流れについタガを外し、「ええじゃないか」狂乱を繰り返すということが考えられ、愚かしい感染爆発をまたしても誘発すると危惧される。

 今更国や都の検査体制のあいまいな在り様に付加疑問の必要はないが、ということは、こういう(新規感染者数の)報道の字ずらに踊らされるのは愚かだということだが、このコロナ禍が何らか明るい兆しの中に入って、収束しつつあるというような安閑とした観測にならないことだけははっきりしているようだ(麻生発言などは小学生以下、身内びいきの嘘っぱちだった)。事態は秋冬にかけて第6波の出来懸念に移り始めた。しかもこれまでの傾向からすると次の波ほど格段に大きくなる様相を見せている。

 ワクチンで得られる免疫力は日数を重ねれば当然減衰する(抗体は絶対無敵ではないし、感染予防や重症化防御に対して、抑々データ的偏りを持っている段階で有意な評価は無理筋だ)。それが3か月くらい、というのは決して根拠のない話ではなく、恐らくだが今後とも、特効薬(感染予防薬であり重症化治療薬ではない)でも見つからない限り!ワクチン接種は繰り返し行う必要があるだろう、というより、ワクチンの効果は現段階では治験の域を出ず、明確なエビデンスに至ってないというのが真相らしい(特に新種の変異株へのそれは、予防にも重症化減弱についても未知数な部分が多い)。シンガポールの、接種率8割以上であっても感染者が急増し重症者さえ増えている現状は、ワクチンオンリーではこのコロナ禍に太刀打ちできない脅威を感じさせる。

 尤も、現段階ではワクチン接種が勧奨される(人間の免疫力に期待する方法)ことは、先ずはコロナ対策の第一要件だとしても、それが永続的効力を有しない(まして決定的エビデンスを保障しない現段階で)以上は、昨年時コロナ禍の最初に自粛の要とされた、不織布マスクの常時的着用(感染しない、させない)、3密回避(感染機会を減らす)、不要不急の外出回避、ソーシャルデスタンス堅持という社会的行動要諦は、これからも継続すべきものと心得ねばならないのだろう(行政側が強調的に発すべきメッセージだ)。

 それは新規感染者を極力減らすという目的、つまりは医療関係者にかかる過重な負担を軽減し、医療崩壊なる重大な危機を回避するために求められる、一種の国民的義務というものでもある(沖縄の惨状は現行日本政府の危機管理機能不全が第一因と考えるが勿論観光立県の痛しかゆしでもある)。勿論感染して治癒してさえ後遺症が残ることは様々喧伝され、軽症だからと感染回避にゆるゆるになるケースのリスクは想像以上に大きいようだ。

 コロナ対応に失敗していた(国民的失望をいよ増しにした)菅氏の退陣は、遅かれ早かれあり得たことで今更論うような特別重大でも重要なことでもない(自民党にとってはそうであっても)。彼は結果的に四面楚歌の裸の王様で、誰にも望まれない宰相として空しくトップの座を追われたという話。しかし昨年夏彼を推した自公の幹部連中が推薦責任を有しないとは誰も思ってない。まして菅のような、安部以来の強圧的恫喝政治が今後必ずしっぺ返しを食らうことは、最早自然の理とさえなった(河野などの強圧的なやりかたは必ず失敗する)。

 菅氏は、最初から、その地位に担がれるべき素質でないことを何故見通せなかったのか、彼の自己認識の甘さはコロナ禍への対応の拙劣さに不幸にも反映していた。不幸は勿論国民側にとってだ。彼が持っていた江戸期的代官気質は前時代的と称すべきものだった(安部のそれは軽薄の一事だが)。

 またその古臭い体質は、例の新学術会議会員任命拒否という非現代的対応に真っ先に示された(滝川事件を持ち出すこともない、彼は彼が拒否した学者の名前さえ知らなかったのだから)。安部同様、時代錯誤は彼らの政治的欠陥そのものであり、そこに通底する強権主義、独裁性、ハラスメント気質、ヘイト体質、ネトウヨ性、反知性、非論理、感情論の勝った独善的私家政治など、その悪質さは結局コロナ禍のような緊急的非常時対応を迫る政治的局面には簡単に空中分解する運命にあったのだ。安部菅タイプは国民が選ぶべきでない最も確定的な政治指導者群の一つだったわけだ。

 しかしかかる政治屋を担ぐような自公政権は今後とも同様の、国民不在のネオ国家主義にのめりこんでやまないだろう。(男社会にしっぽを振る)高市早苗の口だけの「国民寄り添い」や、河野のくだらない自画自賛、石破の様子見(彼は落ち目の自公政権にわざわざ火中の栗を拾う必要はないと踏んでいる)、岸田の(安部案件対応の)中途半端さなど、国民の目には碌な奴がいない自民党総裁選の茶番劇が疎ましい。これを打ち上げ花火のように扱うメデアマスコミの喧騒ほど「この国を悪くする機能」しかないものはない。

 菅を引きずり下ろした民意が今後の政治にどう反映されるかは、政局など無関係な国民側の持ち駒に掛かっている。この持ち駒の「王手」が効くかどうかだ。

 現行選挙制度の不首尾は、結局、国民の過半が選挙権を行使しないという、組織票頼みの自公政権への現状諦念を生み、偏頗な政治的環境を醸成し、かつ、旧民主党に見た戦後保守政治の限界がこれに代わる何物も用意してないという絶望へ国民を誘った。

 1945年8月15日をもってこの国は世界的に見ても無様な敗戦国となってしまった。時間はそこから76年を経過した。この長い時間経過の結果が安倍菅路線だったのか?しかし野党の支持率さえ今やあってないようなものだ。問題は恐らくは戦後政治そのものが継承維持推進不可のものだということ。だからこれを保守する現行政治環境そのものが破壊されねばならないと言える。

 三島由紀夫は昭和30年当時、既にこの国の魂の重大な亡国的在り様を喝破していたが、昭和45年、周知のように自衛隊市谷駐屯地で「聞く耳持たない」群衆の前で空しくアジ演説し、潰えた。国を守り民を守護すべき軍隊に他ならない自衛隊がその隊員が、一億総中流社会の平準化した「士気」なる自己矛盾に陥落して、国防の要たる本分を喪失し、ここにこの国が米国を首魁とする傀儡国家に成り下がったことを証明する瞬間だった。

 憲法違反の軍隊たる自衛隊そのものが逆に全く国防の意を帯しない存在であり、国民が「幻想的に」平和を享受するという奇妙な関係性こそ日米安保の本質(緊急時即応しない米軍に何を期待するのか、彼らの最大の任務は有事の在沖米人救出以外ない、日本人は戦場に取り残されるのだ)だった。土性骨の破砕、腰抜けの田舎侍、大和魂の「魂落ち」(沖縄で言うまぶいおとし)が、戦後日本の正体であり、この事実を回避した一切の主義主張は絶対的に純粋ではない。