沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

この国の終わり 暇人の東京オリパラ問題分析

 先ず去る2013年秋、2020年度五輪招致の最終プレゼンにおいて、この国はその首相安倍晋三東京電力福島第1原発の汚染水漏れ問題について触れ、「(汚染水の)状況は制御できている。東京には今までもこれからも何のダメージもない」と明らかな大ウソをついていた。(以下の記事)https://deslys.blog.fc2.com/blog-entry-501.html

「福島はアンダーコントロール」という大嘘  2013年9月、安倍首相は東京オリンピックの招致に成功させた時のことが忘れられない。福島の状況を「The situation is under control」などと笑顔で大ウソを言いきってしまったのである。当時、フランスでも、タンクから大量の汚染水が海に流れ出していると大きく報道されていたにも関わらず、これだけ大の嘘をつける才能は人並みではない!
 東京電力20日福島第1原子力発電所の地上タンク周辺で水たまりが見つかった問題で、漏洩したタンクを特定し、漏洩した汚染水の量が300トンに達すると発表した。漏洩量は過去最大という。汚染水からはベータ線を出す放射性物質が1リットル当たり8000万ベクレルと高濃度で検出された。漏洩は現時点で止まっておらず、東電は詳しい漏洩箇所や原因などの特定を急いでいる。
 福島原発事故が発生した当初、日本は大した事故ではないとカモフラージュしていたが、外国では報じられていた事故の重大さが少しづつ明るみに出てきた。オリンピック開催地選定投票が行われたのは事故から2年半たっていたので、事故は収拾が不可能かもしれないと疑わてきた時期であろうから、この楽観的な発言には日本人でさえ驚いた人が多かったはずだ。
 こうした首相の発言を、ル・モンド紙では次のように訳していた:
  • La situation est sous contrôle, a-t-il déclaré. Il n'y a aucun problème, cela n'a jamais causé ni ne causera jamais de dégâts à Tokyo ! Aucun problème de santé n'a été enregistré jusqu'à présent et il n'y en aura pas à l'avenir.
  • Aujourd'hui, sous le ciel bleu de Fukushima, des enfants jouent au ballon et regardent vers l'avenir. Pas vers le passé.

次に、のちに発覚する元オリンピック招致委員会委員長の竹田 恆和による下記の事実が報じられた。

2018年12月、フランス捜査当局は東京五輪招致をめぐる贈収賄容疑で竹田を容疑者とする捜査の開始を決定した[8][9]。2019年3月、これを受けて「会長辞任は避けられない見通し」と報じられる

 2021年1月30日東京五輪招致を巡る贈収賄疑惑に関し、フランス当局の予審判事が『日本の捜査協力は限定的で欠陥が多い』と指摘していることが明らかになった。

 この二つの明白な不正、不祥事(国際的不祥事の厳密な裁定は基本的にあり得ないとも言われる)は、東京五輪招致において明らかなアンフェア行為があったことを示している(尤も随時開催国等の贈収賄行為は近来常習化しているといわれる)。但し概ねこの不祥事、不正は特徴的な何らかの傾向に押されて次第にスルーされてしまった。その傾向というのは例の忌まわしい時代風潮、post truthと無縁ではない。つまり、「真実」に対する「欺瞞」「情念」「修正主義」などといった本来的「無価値」、乃至非論理性にかかる公的な主張が、恰も論理的で理性的、理念的な価値を有しているかの如く装った挙句に、一つの正当な存在価値の有効性を持つかのように、最近現実の社会で何気に「大きな顔」をし始めたのだった。

 それは、ひと頃(取り巻きの忖度等もあって)安倍政権時には見たところ有効な、世界理念創造に加担する勢力とも思われたのだが、この宰相に特殊に発生したモリカケサクラ事件等疑惑の渦中で、そのうさん臭さに次第に人民が朧気にも気づき始めて、このコロナ禍でも、連日報道される、拡大の一途をたどるばかりの「待ったなし」の感染状況、感染力が倍加する変異株脅威(治験、エビデンスにおいては現行ワクチンの有効性にも疑問符が打たれ)、引き続き現場において頻発する医療ひっ迫危機などに押されながら、それでも東京オリパラ実施に向けまさに揺るぎなくその姿勢を持続させるIOC、日本政府、無言?の東京都、組織委員会、等の「日本のコロナは世界に比べ大したことはない」(高橋なにがしのツイート内容)という空気感の浸潤にもどうやら反発と違和感、忌避の念を、概ね国民の過半が持ち始めている、という様相だ。東京五輪の延期・中止」8割以上に ANN世論調査 https://news.yahoo.co.jp/articles/07588127c20dd015ef6c4c0c462fa8af6677851f?tokyo2020

 今国民は、国家政府やIOC等の、東京オリパラに関する非決定的な状況での、開催に関する様々な説明のない肯定論にどうしても納得できない心情を抑えられないでいる(とりわけ菅首相の紋切り型で繰り返される作文的言い訳はまさに思考停止の体を成しているとしか言えない)。つまり東京オリパラがたとえ強行的に実施されるにしても、コロナ禍に関しては如何にしても決して払しょくされない不安感がどこまでもつきまとう、ということ。これに対する国民向けの十二分な説明というものがないために、結局は常識的にオリパラ中止意見が過半を占めることになる。この常識というのは、勿論現在のこの国の多数決アイテムではない、つまり実質的決定権は存在しない。だから今回、最終実施決定者は、この常識というものを敢えて超えたところで決定すると考えられる。その場合は、その決定は世界的ともいえる常識的見解に反して特殊に下された、と見做される。

 しかも、我々が漏れ聞くIOCはじめJOC組織委員会、あるいは自公政権、いわゆる「オリパラマフィア」等が、是が非でもそれを開催したい心的傾向の根本に、必ず経済面(利権、既得権、損益計算)が浮かび上がるという現実があり、その傾向に二次的に(実際は第一義のはずだが)取ってつけたアスリートファスト理念?が相乗して、明らかに無理からぬ開催中止世論を、情緒的に強引に開催に向け誘導しようという肚が透けて見えるようになった、つまり、最終決定者の開催決定理由は聞かずとも見え透いている、単純に言えば感染拡大や人命損失よりも組織的算盤勘定が優先されたということになる。当然世界の批判、非難は永続的に繰り返されよう。ところで、先の大戦の参謀たちのように「やってみなきゃわからない」状態の意思決定が仮に行われたとしたら、この国の「敗戦国」体質は、全く戦争以前も以後も変わらないというていたらくを世界中にさらすこととなろう。まさにこの国の「過去に学ばない」国柄が否応なく露呈されるわけだ。(IOCは責任を日本に押し付けて逃げを決める)。

 沖縄県のコロナ感染者状況(5月16日現在)

入院中423人(重症者50人、中等症160人)入院療養等調整中289人、宿泊施設療養中197人、自宅療養中569人、療養中患者計1478人、死亡141人、累積感染者数13859人

名護市535人(解除441人)、北部保健所管内194人(解除146人)那覇市4196人(解除3735人) 

沖縄県「緊急事態」指定を国に要請へ 酒類提供は終日自粛も https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1322795.html

この国の終わり 戦後日本を完全否定する常識とは

 当時「事件」と呼称された1970年昭和45年11月25日にあった自衛隊市谷駐屯地での出来事は、大正と昭和の交(大正天皇は1926年大正15年12月25日に崩御し、その時点で昭和元年ともなっている)の一年前に出生した作家三島由紀夫(平岡公威 1925年大正14年1月14日生)にあっては丁度満45歳の時、つまり昭和時代をまさに時系列で生きた人物として象徴的な「時代の子」という存在の、現場存在証明なる意味合いさえ醸し出して、死後満50年(半世紀)を経た今にしてむしろはっきりと、この人物の言動につき正確に抽象化(歴史的評価を付すということ)すべきであり、明確な「理念の検証」という遡上に載せるべき在り様を示し始めたと勝手に思っている。

 この人物に対する巷間のあらゆる粉飾じみた伝説奇譚の類を一切取っ払えば(その中には「天皇」さえ入らないことはない)、思うにこの極めて常識的な考えの持ち主(というべきと思う)は戦後日本という国の在り様を真っ先に、完全に否定し尽くした、戦後最初で最後の行動的(極めて限定的にだが)思想的存在という位置づけなのではないかと思料する(歴史的評価は「大塩の乱」並みとまでは言えないのだろう)。

 当時米帝国主義的戦争経済主義が正義の警察のような企てを世界中に展開していたのだが、高坂 正堯の所謂「現実主義者の平和論」ばりの吉田ドクトリンにより、正確には臨時的な「軽負担国防策」から復興経済主義が主流となり、池田勇人の「所得倍増計画」以降の高度経済成長政策が戦後日本を世界2位の経済大国に押し上げていたころ、「カソリズム対コミュニズム」なる鉄のカーテンによる冷戦が世界の東西を分断し、米国はじめに西側陣営から日本は極東における防共の要と位置付けられ、警察予備隊(のち保安隊、自衛隊へ)に始まる「逆コース」が際立つようになっていった。

 戦後処理としては明らかに一方に偏したサンフランシスコ講和条約締結(交戦国であった中国<中華民国中華人民共和国>とソ連、およびインド・ビルマが加わっていない)にはほぼ同時に「日米安全保障条約」なる軍事同盟的規約が付加され、日本は名実ともに多面的に西側陣営に組み込まれた(独立回復とひきかえに日本が選んだ日米安保体制によって、戦後日本のあり方が規定されることになり、懸念されたさまざまな問題がここから始まったともいえる、と言われる、)。この講和条約は日本の独立を謳う意味合いが込められたが、沖縄・奄美諸島小笠原諸島はこの時点で独立国日本には属さない、信託統治処遇を受けることとなった.......特に沖縄は1972年まで米国民政府の統治下におかれ、その後返還成っても基地自体は完全に据え置かれたし核密約も存在した。

 ここで少しく沖縄についていうならば、その問題の根本的標的は「天皇制」、乃至日本国に在ってただ一人特殊的地位にある人間の存在ということになり、沖縄に関しては、その最も中心的な、戦後体制への波及効果の原点が戦後すぐに昭和天皇の発した「天皇メッセージ」だと言わねばならないということ。

 筆者は移住者だが、約15年を閲した沖縄移住生活の過程で触れた「沖縄問題」、沖縄に関して本土に住する日本人が忘れてならないいくつかの根本的な問題につき、全く虚心に顧みると、どうしてもこの昭和天皇メッセージが、今の沖縄問題の大元を現実的にしかも現憲法には背反する実質(日本国憲法では天皇は国政に関する権能を有しない)で形成している、と結論付けざるを得ないのだった(結局あらゆる沖縄問題の根本はこの地だけが現行日本国憲法の適用を受けてないということにある)。

 言わば沖縄を基地公害で苦しめている現行米国の指導者たちは、かつてその言動により沖縄島嶼を異国の軍隊に売り飛ばした、何の権限もない昭和天皇の意向(天皇メッセージ)を、後付的におのれらの都合のいい解釈で、今もって現代日本のていのいい人質にして倦むことがないということ(ハーグ陸戦協定違反実態)。但しそれよりも許しがたいのは、例えば辺野古につき米国側意思よりはるかに強度に、日本の2+2外務防衛官僚たちが不可思議な思考停止をして、どこまでも辺野古唯一に凝り固まっていることだ。この概して筋の通らない官僚レベルのあり様は、戦後日本の矛盾に満ちた国柄の実態を象徴するものと見做さねばならない。

 一方沖縄問題から離れてあらためて日本国本土の在り様を具に眺めれば、戦後70年以上を経過した段階でほぼ戦争の影は伝承の域に入り始め、逆コースを辿った戦後日本の矛盾即合一(?矛盾そのまま)の反論理が臆面もなく大手を振ってまかり通り、先の大戦の敗戦に大きく依拠した(かもしれない)現憲法の法精神に対して、三代目ドラ息子たちのあからさまな居直り強盗(歴史修正主義)が頻発する世になった。これが、現今アベ・スガイズムの堕落しきった、度し難く醜悪な政治現象といえるのであり、その薄っぺらで執念深い権力的エゴイズムは「狂気に刃物」の譬え通り、総体的に無責任に国民を死地へ追い込んで平然としている、一種の非人間的な澱んだ下水路の塵芥の寄せ集めにほかならない。

 三島が完全否定した戦後日本の狂った行進が行き着くところ、こうした、取り返しのつかないひねくり回しに終始する、下劣な衆愚政治に堕したわけで、その「愚かしさ」はこのコロナ禍では「衆」にとって明確な死活問題になるのであろう。三島があそこで直に訴えた相手は、残念ながら既に総中流階層化した軽薄な、ある意味現状に満足しきって「総白痴化」した戦後日本という似非民主国の国民にほかならず、その行動は明らかにドン・キホーテの風車攻めと表現せざるを得ない。しかしドン・キホーテに見る「高邁な理想主義」が日本国や日本人にあってどういう扱いを受けるかは、当時の内閣総理大臣佐藤栄作の感想「気が狂ったとしか思えない。常軌を逸している」に表れているのかもしれない。

 それにしても、戦後日本がここまで露骨で節操のないまでに従米隷属を骨肉化するとは三島由紀夫も想像しなかったであろうか。少なくともこうした無様な姿の国の在り様に絶望しないほうがおかしいということ。この国の民は、最早事大主義的にしか反応しないことがわかってしまった。ただ我々はどこかで民衆に希望を見ている。コロナ禍は、こういう希望を何となく現実にあり得ると思わせる動きも見せている。当然国家政府の情けなさは全く別問題で、旧態然の官僚機構とともに何とかしなければならない。現在の国会議員の与野党含めた議員足らざる実質は、到底素直に容認できない。彼らが我々国民のためにまともに仕事をしていると思えない現実はここにきてどんづまりになった。

 沖縄もまた、1972年以来徐々に本土化し、翁長元知事が超政治的に糾合しようとした「オール沖縄」は再び空しく頓挫しようとしている。翁長氏のそれは決してドンキホーテ的な夢物語ではないと今にして思う。むしろ本土の日本が堕落の極みで、氏の正論に全く馬耳東風のていを隠せなかった。恐ろしい現実がそこにある。(つづく)

この国の終わり 人間が住めない国、日本

 沖縄県4月28日コロナ感染者状況

入院中407人(重症41人、中等症137人)、入院療養等調整中157人、宿泊施設療養中143人、自宅療養中414人、療養中患者1121人、死亡134人、累積感染者数12328人

名護市492人(解除407人)、北部保健所管内175人(解除133人)

那覇市3674人(解除3361人)

在沖米軍関係累計1313人 

 医療ひっ迫、病床占有率100%以上。つまり重症者、中等症者は最早入院すら困難という有様だ。しかも変異株患者割合は拡大し、死者数も徐々に増え続け、全県規模で患者数が増加傾向にあり沖縄のどこにも今は安全地帯がない。こういう時、県外からGWからみで不要不急の物見遊山客が押し寄せたらどうなるか、医療崩壊、破壊により巷に悲惨な光景を見る羽目になるのは間違いない。逆に又、県内の「ええじゃないか」バカ騒ぎの集団が、家庭や職場にウィルスを持ち帰りクラスタを発生させ、目も当てられぬ惨状を呈すると考えるのが自然ではないか。

 国や行政がやっていることは木を見て森を見ない(はっきり言って木さえ見えてない)の譬え通りで、ゆるゆるの制限措置が国家政府の「やってる感」だけの対応で、でたらめな、基準のない緊急事態宣言発令とその解除時期、IOC会長来日に合わせた期間設定(確信犯だ)など、その国民に対する日常的安全保障体制、緊急時危機管理体制の杜撰さをこうまであからさまに見せつけられると、我々の普通の生活生存の維持すら覚束ない実に恐ろしい国だと言わざるを得ない。まさしくこの国は人間が住むことのむずかしい国、人間の住めない国とさえ言わねばならないようだ。

 リスク管理といえば直ぐに思い浮かぶのは、わざわざそのリスクを付加しかつ増大させ、明らかになくもがなのリスクを呼び込む行為としての東京オリパラ開催だが、国民意識や国際世論を等閑視して、彼ら(オリパラマフィア)のためだけに機能する利権まみれの執行部が強行する、国民誰も歓迎せざる都市(東京)行為というものは、現代世界理念の上からも非常識な、到底人間業とは思えない行為だ。何より許しがたいのは、(先の大戦の)戦時に大新聞等が見せた戦意高揚、戦争礼賛、翼賛記事満載という商業主義丸出しの在り様が、この度も我々の目の前に恥も外聞もなく繰り広げられ、どこからもこの国家的発狂行為を一刀両断切り捨て切ろうという動きが見られないということ、それは結局国民挙げてこの国は先の大戦同様に、(実際のところは知らなかった、騙されていた)と言い訳して自らの墓穴を掘ってやまない、学ぶことのできない三等国民、低レベルな似非民主国家国民、そういう国際評価の下に打ち捨てられる結果が見えているということだ。

 丸山真男、朝河貫一らが事詳らかにした日本国の国民性、事大主義、が今生命生活の危機状態にあってもこの国の民の「強盗目送」行為を何気にやってしまうような気がされる。沖縄で(安保マフィアの手により)県民が置かれている他国の軍隊に占拠された(基地公害まみれの)時空海域というものが、同様にオリパラマフィアの手によってこのコロナ禍を徒に蔓延拡大させる話として永続的に日本を特徴づけるわけだ。あいつら(安保マフィア、オリパラマフィア)は間違いなく我々の敵である。日本国民は早々にそのことに気づかねばならないし、二度と彼らに力(決定権、権力、議席)を与えてはならない。(つづく)

この国の終わり 合理性を顧みない国策を続ける日本にいる日本人

 4月15日沖縄県コロナ感染状況

入院中391人(重症者32人、中等症117人)、入院・療養等調整中198人、宿泊施設療養中120人、自宅療養中518人、療養中患者計1227人、死亡130人、累積感染者数11137

名護市感染者数455人(解除385人)、北部保健所管内150人(解除124人)、那覇市3346人(解除3014人)

10万人当たり新規感染者数(4月14日)56.69(全国2位)

 9日に県衛生環境研究所が確認した感染力の強い変異株「N501Y」に感染した20人のうち、15人が北部保健所の管内で確認されていた。

 県は感染拡大に歯止めがかからない要因の一つが変異株としている。県専門家会議メンバーの高山義浩医師は10日の会見で全国の多くの地域で変異株が広がっているとした上で「流行に巻き込まれると、県民が努力をしても防げなくなる」と指摘。感染の中心が変異株に変わる前に、現在の感染状況を改善する重要性を強調した。

 県によると北部で確認された15人は名護市での行動がつながっている。玉城デニー知事は同市を重点措置の対象にした理由に変異株の多さを上げた。

 県の糸数公医療技監は「(15人の)つながりはある程度追えている」として散発的な感染ではないとの見方を示した。クラスター(感染者集団)に当たるかは保健所が調査している。(以上沖縄タイムス記事)

 4月12日沖縄県は政府の「まん延防止等重点措置」に指定され、県も警戒レベルを最高の第4段階(感染まん延期)に引き上げると発表。県民は多かれ少なかれこの(第4波に入った)コロナ禍への警戒感を一層強めている(のだろう)し、県外からの取り分けGWからみの流入もかなりの割合で(ホテルなど)キャンセルされてきている。

 昨年初めに端を発したこのコロナ禍にあって、既にこれまで1年以上にわたり国の無為無策ぶり、むしろ逆効果とさえ言える悪策愚策をいやというほど目にしてきた我々は、こういう、字面だけ「警戒感」を出そうとしている(やってる感丸出しの)国が雰囲気醸成、印象強調路線を発出しているのにもかかわらず、一方で、何が何でも実施しないでは済まない東京オリパラの狂騒曲(IOC会長が絶対的開催宣言を出した)を目の当たりにすると、彼らIOC自公政権、政府、オリパラマフィアたちの、脳漿内にある狂った計算機(公には合理性を閑却した空間に働く)が弾き出す矛盾即合一の奇天烈回答(彼らには通用しても常識的な評価に耐えない答え)に、恐らくは彼らのごり押しの真の犠牲者は、今後間違いなく、実際オリパラなど何の関係もないこの国の普通の民であろうと思わずにはいられない(招かざるべき客である海外からの競技者・関係者が数万人押し寄せ、ダダ洩れ状態の日本の国内防疫体制下、市中に変異株ウイルスをまき散らし、諸処にクラスタを発生させ、収まりのつかない感染無法地帯を現出させるのであろう)。勿論無理筋開催により、さながら競走馬のように命がけで競技人生を全うしようというアスリートたちも、向後逃れようもない感染リスクを背負うこととなる。

 「やってみなきゃわからない」とばかり米英に宣戦布告した大日本帝国の戦争指導者たちがしでかしたのと同じことが、安倍・菅路線によって再現されるのだと。国民は、お上のやることに間違いはないのだからという封建奴隷的心情によって無言の臣従を選ぶ(協賛媒体を固持する報道等関係機関も商業主義の頸木から逃れようもなく戦前並みに翼賛化してしまった)。

 神国日本の妄想に取りつかれ「神風が吹く」的神頼みに安住し(この確実に第4波といえるもののうねりをまのあたりにしてさえ、オリパラに関するコロナ禍制圧宣言まがいの根拠なき勝利宣言先取りを口にし)、「何とかなるだろう」と怯懦にも安穏に多寡を括っているらしい様子が見えてくる(「(政府は)何もやらなかったというのは余りに失礼じゃないでしょうか」と菅は、さも尽力した最善の宰相とでも言いたげな風情でいるようだが、実際は何もしないどころか結果的には悪いことばかりしている)。国民は彼らの作り出す明らかに偽物の雰囲気にのまれ、やがて如何ともしがたく、「なるようにしかならない」と諦めて、オリパラでもなんでもやってやれないことはないと、その脳内のスイッチを否応なく切り替えることだろう。亡国の民よ、覚れ。

 利権既得権塗れの大会実行機関やオリパラマフィアたちのコロナ禍等閑視は、沖縄の基地公害同然の、住民を日常的に不可測なリスクの中に我関せずと置き去りにして臆面もなく我欲に走る、鬼畜的所業でしかない。しかし驚くべきことは、世界中(日本の大メデア・マスコミ・ジャーナリズムも挙って)が彼らを直ちに糾弾することなく、するがままにただ傍観し、どうでもいい話に打ち興じている有様だ(但し、諸外国の主だった報道機関の論調は、確実に国民世論同様の開催反対意見を披歴してはいる)。

 尤も、二階が「中止」の文言を何気に口走ったのは、彼らにも、最早収拾のつかない事態が差し迫っていることを認めざるを得ない有様が手に取るようにわかろう。国内世論、国際世論いずれにおいてもオリパラ狂騒曲を歯噛みして見つめるさまは明らかだ。

 ここまで書いて筆者は如何ともしがたくこの国の精神的乱脈ぶりを痛感し、合理性を等閑視する狂気が人命さえ危うくする実態に戦慄さえ覚える。安倍・菅路線の劣等児ぼんくら政治には早々に埒外に消えてもらう以外ないと。(つづく)

この国の終わり  LITERA 聖火リレーのスポンサー車両がバカ騒ぎで批判殺到もマスコミ沈黙

 この東京オリパラという、人類史上稀に見る、人間の欲得だけが絡む(日本国民8割がた開催に反対し世界の過半がそれを中止すべきとする世論に背を向けた)コロナ禍の中の異様なカーニバルは、ナチス由来の聖火リレーなる滑稽で不気味な儀式に始まり、このあと100数日にわたって日本列島を縦断し(コロナ汚染を徒に蔓延させ)、東京に戻って国立競技場の聖火台に点火し、誰かが開会を宣することで事実上成立する。

 この瞬間、日本国と東京都、日本人は、先の大戦以来のコロナ戦争敗戦国として再びの汚名を被る運命を選んだわけだ。と同時に、今まさに再拡大しつつある感染実態に接してなお、欲得の充足という獣的な一面だけが突出することで、恐らくはこの国の精神の闇をいよ増しに深くし取り返しのつかない絶望的状況を現今コロナ禍に加えることとなる。

 待ったなしで我々に危惧されるのは、世界がこのコロナ禍を、様々な意味で今後解消する手立てさえ見つからない現状にあるということだ。しかも変異株ウイルスの新たな感染拡大が始まっていて、次第にそれが主流になると言われる。

 つまりこれまでの治験・エビデンスでは回答が示されない、新ワクチンによる対応の問題が露わになってきているということ。今出回りつつあるワクチンは既に過去のものになるかもしれないということ。

 とすれば、再び救済手段の開発、治験、エビデンス獲得研究を一からやり直さねばならないことになる。2021年が2020年の世界挙げての周章狼狽をもっと深刻な大団円の渦中に繰り広げることになろう。その図がかすかに見えてきている。してみればこの東京オリパラとは絶望の中の「ええじゃないか」騒ぎ以外の何物でもないということになる。

 但しその黒幕は利権既得権塗れの大企業やIOCJOC組織委員会などの胡散臭い連中であり、自公政権であり、国民やアスリートたちはこいつらに踊らされて空しく破滅を準備する狂った国の人身御供となる。

 この国の富裕層が、この国の危い経済指標のいくつかを偏頗に押し上げていることは、ちょっとデータを弄ってみればすぐにわかる。しかもこの層は全人口の1割程度だ。概ね自公系政治集団が取りざたする経済関係の数値は、こうした偏頗なデータの寄せ集めに他ならない。はっきり言って彼らの示す何らか彼らに利するデータ、数値はほぼ目くらまし数値と言える。

 国民は自分らの置かれている荘園がどんな貴族たちの囲い込みでできているかを知らずに、ただ平準化された(と錯覚している)大地の上に明日の活計をおぼろに立て続ける。そして相変わらず「他に適当な者がいないから」と言い訳しながら、自公系保守政治家たちに貴重な一票を献上することをやめない。それが自ら墓穴を掘る行為とも知らずに。

 ところで沖縄では3月31日現在

218人が入院(重症者20人、中等症71人)、入院療養等調整中130人

宿泊施設療養中146人、自宅療養中203人、療養中患者計697人

死亡128人、累積感染者数9482人

名護市387人(解除374人)、北部保健所管内125人(解除122人)

那覇市2904人(解除2681人)

 因みに31日の新規感染者数は111人となり2か月ぶりに100人を超えた。変異株の感染実況は未だ判然しないが、第4波の兆候は明らかと言えそうだ。今後数値的な拡大傾向に歯止めがかからないのであろう。

 この国の政官業学のコロナマフィア化(=東京オリパラ、GoTo他)は既に様々な局面で顕著になってきた。安倍・菅ラインの悪質さは到底理念的度量衡に耐えない。日本会議保守主義集団の体現である自公政権は、日本の近代化の歴史に最後の総仕上げの悪あがきを演じて見せるつもりだろう。

 先ごろの国会で、福島瑞穂議員が行った辺野古埋め立て用土砂の糸満残存遺骨埋没地帯からの調達に関する厚労・防衛省への抗議と是正促しは、この国の国策の明らかな精神的不健全さを突いて余りあるが、それ以上に、ここまで沖縄を蹂躙してやまない所謂2+2官僚レベルの日米外交(朝貢)システムは必ず歴史が断罪し去ると信じる。但し、日本国民の大方の世論が、沖縄を除いて国策に取り込まれ物事に正しい目を向けずに見過ごしている在り様は、同じく、どこかで厳しく裁かれていると感じないわけにいかない。

 既に第4波は来ている。国民はこの安倍・菅ラインによって自分たちが確実に死地へ追いやられると覚悟せねばならない。むざむざ殺されるのが嫌なら、......(つづく)

詩の終わり この国の悲劇的な不健全国家展開

 徳川260年の幕藩体制は、黒船来航という外圧に遭って上を下への大騒ぎを繰り返し、国内不平反乱分子との確執の中、何ら目新しい方策も講じえないまま、「大政奉還」という政権投げ出し無責任体質を曝け出したまま「王政復古」に取って代わり、その実質的終焉を迎えた。この時代の政治理念の主流を占めたのが「尊王討幕」であり、要は支配者の首のすげ替えという手段による新たな階級社会の構築に他ならない。それが、主に権力者の政治責任仮託媒体と化した「天皇中心主義」の国家主義であり、皇国史観という名の神話的不合理を戴した国家観であり、土着せざる非民俗的な国体という砂上の楼閣であった。

 つまりこの旧体制の終わり方は、歴史的に必ずしも本質的なものではないということが、その後(明治大正昭和)のこの国の歩みの中に明々白々な史的実態を示していた。これを正統派歴史書は「跛行的近代化」とはっきり書いている。しかしこの国の近代・現代を論じるにあたって、かかる歴史的性格に対して明確なアプローチをする本質的な試みを、敢えて為すべき必要性に言及する論陣は実際希薄なのだ。そしてそのことが、この国の、発育不全な実態を根扱ぎで変える流れを作り出せない、重大な質点となっていることは言うまでもない。

 この国の近代化は、先ず「封建遺制」の打破と門戸開放というアイテムのクリアから始められた。「封建遺制」の打破とは大きくは旧階級的疎隔解消にあり、「四民平等」理念の実践として具体化する。門戸開放とは、「鎖国」の打ち切りによる「世界」的視点の開眼であり、諸外国との外交という政治アイテムを付加することだ。

 ところが、かかる「近代化」の実質的担い手は、(農工商に属した平民なる民衆でなく)旧支配階級である武士階級の中の下層部分(上層階級の中の不平分子としての下級武士)であり、元々支配階級である公家出身の知的特権階級に属する者たちであった。これがこの国の近代化の「跛行性」を(精神的にかつ感性的に)彩色し、改革の本質的な矛盾として徐々に確実にその病根を浸潤させていったわけで、その急先鋒が伊藤博文の手になるこの国の「官僚機構」(民意から乖離する官尊民卑のエリート集団)であり、その後の帝国日本を破滅への道に導いた(と同時に現在も残存し続ける)実質的責任媒体と言える。

 よくいうように、明治維新は残念ながら市民革命ではないし、民衆的なエネルギーの発露でもなかった。つまり民衆的幼弱さ(国民が国の歩みに実質的な関与をせず、また、国の中で主体性を持たないということ、あるいは奴隷的従属性に否応なく押し込められること)を孕みながら、国として展開するこの「跛行性」がこの国の近代化を悲劇的不健全さに落とし込んだということになる。

 明治新政府は、この国の決定的な資源不足、市場の狭隘、という持たざる国の実情に鑑み、おのずと資源の確保、市場開拓という必要性に迫られ、日清(1892年)・日露(1904~1905年)戦役など通じ軍事力を増強拡大化しこれを背景として、殖産興業、富国強兵の矛先を先ずは琉球島嶼と大陸半島に向け、琉球分捕り(処分1872年)と韓国併合(1910年)を実践した。この流れは思潮としてのちのちの大陸進出侵略に繋がっていく。この国の覇権主義第一次大戦後の経済危機(恐慌)、強国化の過程での欧米との確執など悪条件が重なり、次第にアジア的孤立化と枢軸国への接近が顕著となっていく。

 近代化以降、「持たざる国」の悲哀がこの国の資本主義を帝国主義覇権主義に駆り立て、領土的拡張という蛮行を通じて枢軸国共々破滅への一途をたどったわけだが、それでは如何なる仕儀がこの国をまともな道に立たせ得たのか?何故それがこの国にはできなかったのか、向後それはできることなのか?その実質的主体者である国民民衆に関し、柳田邦男は、民衆的絶望を論う識者に「私は希望はあると思う」とだけ言っていた。(ここまで大雑把に日本の近代史を眺めてみた。勿論私見による雑史に過ぎない。)

 ここで沖縄移住者の筆者は、これに関連して何気に沖縄の事、辺野古問題の事を想起する。国家方針と国民が明らかに対立する事案としてそれはある。そしてみたところそこには多くの場合、国家国策実現手段が、超法規的にあるいは正確には脱法的に為されていると断じなければならないものがある。民衆的絶望を規定事実のように扱って「国が何をしても日本では特に沖縄では!決定的な大衆運動は起こらない」とばかりなし崩しに強行されているということ。その現実が何年にもわたって持続されかつ今も盛んに進行しているということ。

 何年にもわたって....ということは、民衆的絶望という風景、環境にもかかわらず沖縄の民衆的意思は変わらず息づき国への抗議、抵抗を続けているという事実を明確に示していると言える。だから沖縄に関してはまさに「希望」があると言えるのだし、歴史的にはガンジーの言うように「愛と真実が必ず勝利する」ということが言えるわけだ。このことは自己内奥の「不安と臆病」(民衆的政治的絶望)との闘いを通してのみ民衆運動は果実を得るという意味になる。何故なら、国家的外圧が目掛けるのは必ず民衆分断であり、民衆が決裂するのはその心内に「不安」を抱き、かつこのまま反対運動に進むことに臆する気持ちが芽生えるからだ。当然国家は論理的筋立てでの国策推進など鼻にも掛けない。日米同盟の在り様を論えばその幻想的な筋立てをすっぱ抜かざるを得ないのだが(沖縄問題はこの国のここまでの在り様から確実に民族問題と措定すべきであろう。従ってその解決手段は琉球独立という一手以外思いつかない)。

 さて、それはさておき今の国会中継を見ていると、総務大臣が自己弁護を先どって、聞かれてもいない自身の行動の予定心証を述べるという、愚かしい過誤を犯していた。事実に対する是か非かという問いに、法的な言い訳になる倫理規定(大臣規範)違反の有無を答えるという過誤だ。その先で必ず聞かれ突かれるだろうと予め自己弁護したわけだが、弁護するというのは国民の疑念の対象に自ら身を置いたという事実に立脚するわけで、そのまま、事実を認めたという意味にしかならない。しかもその後実際にその事実が判明した(文春砲)わけで、その後も幾重にも自己弁護の網を張り巡らして国民の目を欺こうという心根が見え透いていた。

 アベスガイズムの、腐臭に満ちた毒気を体現した三流政治家(三下奴)の誹りを免れまい。安倍・菅内閣通し、その構成員である彼らの保身・権力固執のさがは度し難いレベルに達している。又、官邸に人事権を握られた官奴(奴隷官僚)たちは揃いもそろって醜悪な欲得業務(自身の身分保全だけ目掛ける)を横行させ、全く恥じるところがない。確かにこの国の土性骨は腐りはて、行きつく先の薄闇を予感して民衆的絶望の底深さばかり痛感させられる。これが本土を覆う政治的絶望の惨状の一端だということ。

 再び繰り返せば、自公政権の選挙における得票数は、全有権者数(有効投票数に棄権数をそのまま加えた数)に対して2割強程度の割合でしかない。これに対して与えられた議席数が有無言わさず過半を占めるというのはどう見ても不当で過当であろう。この実質的な支持率を反映しない国会という場で多数決原理をそのまま適用すれば、当然に議決の方向が偏向すると言わざるを得ない。

 この安倍・菅体制では、稟議を尽くさず強行採決の場面が横行している。自公政権側から内部告発的に造反議員がでてもおかしくないのだが、それさえほぼ皆無に近い。かくしてこの国の代議(議会)制民主主義は、(国民を)代議せざる議員たち(議席を過重に得ている議員たちの総体)の恣意的、党派的あるいは私家政治的な政治環境のもとに、自公政権のような保守主義的旧態依然の国政実態がいやがうえにも蔓延ることとなる。

 この国の歴史的展開を眺めると、この国の民は国策の犠牲者以外ではなかったし、今後もその頸木を免れない。先の大戦を歯止めの効かない在り様で経過したのも、かかる現今政治的絶望を無力にかこつのも、どうやらこの国の民の運命とでも形容するしか言い様がない。我々はいつまで、この果てしのない泥沼にのたうつ自身の運命を甘受しなければならないのか?いつまで米国従属の敗戦国縛りに苦しめられるのか。

 大震災も原発事故も原爆体験もコロナ禍も自然災害の猛威も、この国を根本で変えることは出来ないのか?この期に及んで未だオリパラ開催に前のめるこの国は、到底人間の住める国ではない。(つづく)

詩の終わり この国の状況の稀に見る劣悪さ

沖縄県発表コロナ感染状況(3月3日付) 

入院中176人(重症者25人中等症34人)

入院療養等調整中15人、宿泊施設療養中53人、自宅療養中30人 療養中患者計274人、死亡120人、累積感染者数8235

名護市376人(解除368人)、北部保健所管内124人(解除119人)、那覇市2542人(解除2436人)

 当然沖縄でも新規感染者数は宣言前に比べ減少傾向が顕著だが(但し下げ止まりしている感がある)、逆に死亡者数はひと頃に比べると連日のように増加しているやに見える。

 宣言を出した時点と比べて感染状況は大幅に改善しているとする一方、非コロナ病床の占有率の高さや若者の新規感染者数が多いことを理由に、宣言の前倒し解除はしない(22日県説明).....20代が全体の21%で年代別一位

 現今メデア等により我々に伝わる、感染者数が問題の枢要という印象的な扱いの中にありながらも、実際基本にあるのは医療体制の逼迫、医療崩壊・破壊の危機、検査調査実数が不足する変異株の不可測な市中感染ということになるのは既に知られている(既に旧来の株でないこの感染力の強い変異株が新たな感染媒体になっているという)。

 感染者数の増減はその内訳を詳細に分析し傾向をつかみ、適切な減衰対策をしていかねばならないし、そういう意味の厳密な数値的扱いをしないと、いたずらな情報流布による国民意識のミスリードにつながるわけだ。ミスリードは結局は国民生活の不利益を生み国益をも損ねる。現在この国はコロナ禍ばかりでなく様々な国勢上の乱脈な在り様により、国民自身、一種の宙ぶらりんな不安定な立ち位置を余儀なくされているのは間違いない。ミスリードではなくノーリードというが正解であろう。国民にとっては現行国家政府は、まさに国民のためのものでないと思わない訳にいかない。

 IOCJOC、オリ組織委員会自公政権、東京都(知事)、業界、これらがほぼ同様の利権、権益の我執により、コロナ禍という、如何にしても収束方向の見えない重大な危機的要素をほぼ度外視して(コロナの状況に関係なく)、オリパラ強行路線を突き進んでいる在り様は、一方で8割近い(オリパラ中止延期を望む)国民意識や世界の主だったメデアが伝える懸念など眼中にないとでも言いたげで、戦後顕著な日本型資本主義の「非人間的な(国民軽視の)」エゴイズムが透けて見えてやりきれない、と同時に、いまだにパクスアメリカーナの戦争経済主義から抜け出ない国際機関の在り様は、人類の現代的精神的腐臭さえ感じないわけにいかない。逆に言えば彼らは、新たな変異株(種ではない....今回の変異株は、新型コロナウイルスのスパイクタンパクにN501Yという特異的な変異が起こり、宿主細胞への感染力が強くなったという性質の変化がありますが、元来もっていた新型コロナウイルスの基本的特性はほとんど引き継がれておりますので、依然として新型コロナウイルスのままですので、変異“株”と呼称すべき....一般社団法人 日本感染症学会 記)等ばい菌充満の空間でアスリートたちが、後日予定的に健康を損ねる運命ながらも、決死の競技人生を全うしようとすることにまさか「特攻美学」でも見ようというのだろうか?。一般国民が、繰り返される人災的コロナ禍(政府の愚策悪策)にまたしても晒されるという運命も予定されている(としか言えない)。国民軽視のアベスガイズムがここでもその本領発揮、という、我々がかねてから危惧する事態は現実のものになりそうだ。

 ワクチンはいずれにしろこのオリパラなど関係なく今年中に一般国民が接種できるかどうかさえ知れてない。そのワクチンも明らかな予防対策の治験は付与されてなく、感染者が重篤化しない程度の効果しかないらしい。当然副作用の問題もある。大体が、治癒してさえその後遺症に苦しめられる事例が跡を絶たぬらしい。感染することの引き続くリスクは今の防疫体制や予防策又はワクチンなどでは半端な効果しか望めないということでもある。

 つまり我々国民は等しく、いつ何時見舞われぬとも限らない市中感染的な空間の中で、生活生存上明らかに不要不急の国際運動会(オリパラ)決行という「やってみなきゃわからない」レベルの安全保障体制の下に無防備に投げ置かれ、招かれざる海外移入者たちの市中闊歩やら感染原因ばらまき行為をただただ黙って窓越しに眺めるという、報われない2週間をやり過ごすことになる訳だ。それとも(無観客)隔離状態の競技会決行などにどういうメリットが考えられるのか?その間も競技者の感染リスクは必ず想定されるわけで、クラスタ発生もあり得ないことではない。呪われたスポーツの祭典は百害あって一利なしということだ。

 実際、我々には端からこの危機管理無能の自公系日本保守主義政治の堕落ぶりが見えていたのにかかわらず、主に政治的無関心と政治的絶望が合流し、「他に適当な候補者がいない」という理由を正当な主張だとでもいうように押し立てて、行われてきた現行有権者行動により、総論的に棄権行為と無責任行為が醸し出した消極的政治環境が、全有権者数における2割程度の少数派に他ならない自公系議員に過当で膨大な議席数を献上したという真相。つまり、この政治的無関心層と政治的絶望層の棄権行為と無責任行為に対し、このコロナ禍という、差し迫って否応なく自家行動を規制せねばならない事態に鑑みて、政治への積極的参加意思に基づく状況改変の行動喚起が求められるわけだ。

 例えば、例の総務省幹部と東北新社(菅の長男が実質的執行責任者だったようだ)の接待会食付随賄賂案件が、菅首相案件(権力者...官邸人事権への忖度、又はそこから敷衍する官僚の国家的犯罪行為)とも言える内実に満ちていたことは、結局はアベスガイズムなる自公系保守主義政治の汚職体質、私家政治腐臭、金権政治、あるいは強権的恫喝政治を図らずも露呈させ、ここで国民がそれでもこいつらを今後も政界にのうのうと永らえさせるのか?と問われる局面に差し掛かっていることを示している。

 現行自公政権の国政運営は、結局は国も国民も諸共に滅びる道筋にあると断定せざるを得ない。(つづく)