沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

詩の終わり コロナ禍という自然界の警告に対して人類が対応すること

 沖縄は1月31日時点で

入院中359人(国基準重症者39人、中等症143人)

入院・療養等調整中104人、宿泊施設療養中132人、自宅療養中164

療養中患者計759人 死亡退院90

累積感染者数7585人  (沖縄県発表)

 因みに本島北部名護市(の数値では

累積感染者数348人(解除者291人)、北部保健所管内では

累積感染者数122人(解除者111人)、那覇市では

累積感染者数2340人(解除者2182人)

 宮古島市では1月に入って27日までに168人の感染が確認されている。同市の26日までの直近1週間の新規感染者数は84人で、人口10万人当たりで151・11人に達した。都道府県別で全国1位の東京都は25日までの直近1週間で56・03人で、東京の約3倍に上っている。(琉球新報記事)

 我々には、この国でこの新型コロナが一体向後どうなっていくのかさっぱりわからないという状態にあり、第三波襲来以降いよいよ深甚な不安と恐懼、どっちつかず(国が発するメッセージの薄弱さのせいで)の不安定を甘受せざるを得ないような状況になってきている。医療崩壊、医療壊滅などという深刻な影響を醸す文言も飛び交う。今、国(や自治体)から出されている限定的緊急事態宣言は、様子見で2月7日を睨んでいるが、どうやら「掛け声ばっかり」で収束の目途も立たぬままずるずると延長される気配が濃厚らしい(検査数との比較にない感染者数の増減を無作為に出す報道も後を絶たない....東京都は偽収束傾向を演出してないか?)。

 飲食関係からの感染が、その感染者の家族への感染、家族の周辺接触者の感染、接触者からの感染拡大と数珠つなぎで起きており、又、無症状、軽症者の自宅療養における家族間感染、検査してない隠れ感染者の、活動経路における市中感染、市中感染による経路不明の感染拡大、そして変異性ウィルス感染者による市中感染など、今のこの国のコロナ対応社会体制の、ほぼダダ洩れ状態に置かれた感染実態が浮き彫りになり、自助共助公助(菅語録)などといういかにも単純に過ぎる言葉の羅列が、如何にこの国の度し難い真相を深刻にも覆い隠しているかがわかる。聞こえてくるのは、率先、事の処理に対応して適切にかつ真剣に動くべき代議員たちの、余りに真逆な言動の数々だ。我々は、いかにも苦境に立たされている我々自身の境遇に何とは知れず不平不満が募り、国会議員たちのほぼ満額で手にする歳費の半分でも国民に還元すべきと、思わずにいられない。「給料泥棒」などという侮言も出てくる始末であろう。

 公助から見られた自助(自ら助ける....「天は自ら助けるものを助ける」というが)というものは基本あり得ない(公というのは天でも神でもなく人であり、しかも主権者から見ればどこまでも従、公僕にほかならない)。公に対して言えば「自ら助ける」のはプライバシーの領域で、公はあくまで外側からこれを扶助、補助する立場に置かれる。つまり、菅の言う自助に始まる列言は、最初から明確な公助が厳然とあって成り立つべきもので、言ってみれば公助共助自助が正しい並べ方だ。しかし、アベスガイズムの目指すところからすると、彼の言っているところは、国民主権を排した「国家主義」そのものを言葉巧みに言い換えたものと解される(お前たちがおのれの分を弁えて大いに努力するなら我ら公は少しばかり助けてやらないでもない、と言っている)。

 「最終的には生活保護がある」という菅の放言は、残念ながら彼の本音であり、国民全員が厳しく制限された国営事業(生活保護法)により選別され、残余は「死刑」に近い放逐の対象となる。これが彼の「優生思想」であり、彼の対コロナ無為無策、あるいはGoToなどは巧まれた国家規模の国民選り分け作業の始まりだ。どう転んでもこのコロナ禍によりまずは中小零細企業の淘汰が事実上確実に進捗し、財閥、大企業、富裕層、保守系政治集合に利する企業だけが生き残る。勿論同時に高齢者・病弱者がコロナにより狙い通り弾かれ、無症状軽症者が多い(不逞な感染媒体そのものの)若年層が主体となって現行年齢形成構造体を逆転させる(自公政権を支持する世代層)。

 日本経済と社会保障に関して、人口減少社会少子高齢化社会における将来の社会保障の持続困難性を指摘したうえで、企業の生産性向上が絶対に必要であると繰り返し主張している。特に技術革新や海外展開に対応できる人材が乏しく、最新設備の導入にも限界がある、日本に過剰な数がある中小企業が生産性低下の大きな要因だとし、そのために最低賃金を引き上げて経営力と競争力がない中小企業を淘汰・統合するなどの政策を行うべきであると提言(デービッド・アトキンソン)....菅の心酔する理論

 恐ろしい話だが、冷静に見ているとそのように解釈できると、今の日本の国の在り方に納得するのだ。思えば安倍政権の長期の狂気じみた在り様は、かかるコロナ禍などのパニック媒体を利用してどさくさ紛れに私家政治を実現しようという流れだったとしか思えない(病気を隠れ蓑にコロナ禍の責任逃れで姿を消した)。菅に至っては、コロナ禍を勿怪の幸いに、弱者(中小零細企業、高齢者、病質者)淘汰による財閥復活、大企業を中心とした経済力と生産性向上により一気に(旧)大国日本を世界に覇する目論見だ(この宰相の冷酷な片言は決して答弁下手程度の話ではない)。

 序に言えば菅はポロっと「国民皆保険」の見直しという流れを口にした。もし皆保険でなくなれば貧者は的確な対症医療を受けることができなくなり、今なら生き延びうる生命がこぞって失われるという話だ。これも「優生思想」に通じるのであり、コロナに限らず、一切の治癒可能な病変に罹患する人々を確実に見殺しにすることだ。得体のしれない上層上流人種群が生き残り、ヒトラーナチス・ゲルマン優秀民族並みに第三帝国を現出し、辛うじて生き延びた弱者貧者下層下流人群を隷属させ、絶対的階級制度のもとに君臨統治する、これが彼らの目指す未来の日本国に他ならない。但し菅が狂熱的に国家主義を信奉し、ヒトラーに次ぐ近現代史上2人目の凶悪な独裁者ぶりを可能にすることなど俄には信じられない。世論調査は確実に菅を放逐する方向へ向かっているようだ。しかし、コロナが去ったらどうなるか?おのれに直接危難が降りかからぬ限りこの国の民は、「元の田沼恋し」並みにどっちに転ぶかわからない、というのが歴史的事実においてはっきりしている。つまり先の大戦の惨禍から学ぶことなく、戦後自公政権のような非民主的な政治媒体を無批判に受け入れ、今日の憂いを招いたところからもわかろう。

 現代資本主義社会の趨勢は、功利主義と優生思想により弱者淘汰、トリクルダウン的トップダウン方式のおこぼれ僥倖のみが民主主義の担保として付加された、完全な貴族社会ヒーラルキーを構築すべく雪崩を打って向かおうとしている。

 しかし、このコロナ禍は我々の前に体制側の本質的綻びを少しばかり開陳して見せている。そして黙っていればその災禍は我々自身に必ず残酷に確実に決定的に襲い掛かり(大震災豪雨被害原発事故の事をゆめ忘れるな)、全てを跡形もなく奪い去ることが明らかになりつつある。

 コロナ禍など、こうした自然災害、自然がその脅威を示し、手の付けられない猛威を振るったとき、人類はそれがほぼ大過なく過ぎ去ることを希いつつも確実に甚大な深い傷跡を残すことに呆然とする。しかしながら人類は、こうした深刻な災害を通して自然が教えている、深い哲学的な意味にはさほど関心を払わない。一方、天然痘撲滅などに成功した人類は、現代人の過半を有為に罹患させる悪性新生物に対して決定的な局面を迎えるには至ってなく、そしてこの度の新型コロナには一年近く有効打を打ちあぐんでいる(今のところ我々はこれが速やかに収束し元の生活が戻ることなど殆ど想像できてない)。疫学上の問題だけがあるのでなく、それに対する我々の生活形質が異常なほどゼロベースで回復可能性を減じて居るという現実が見えている。つまり、高まりつつあった未来志向型の生活形質が明確に原初的な改変を迫られたという経験だ。そこに依拠していたあらゆる生業が生命線を絶たれるという経験。国家規模で救済すべき実態に国家機構が全くと言っていいほど対処できず愚策に走り、愚劣で恥知らずな面貌をひけらかしたまま、「なるようにしかならない」とでも言いたげに責任放棄してやまないのだ。

 さて人類はこの期に及んで、与えられた精神の革命という契機に際し、どのようにしてその実際の着手に至るのだろうか?