沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

詩の終わり 「日本国対沖縄」概論の3

 沖縄県9月25日発表コロナの現状

 入院中108人(重症者16人、中等症者36人いずれも国基準算定値)、入院・療養等調整中5人、宿泊施設療養中14人、自宅療養中8人、死亡者45人、累積感染者数2389人。

 7月以降のデータではいずれも上記緑色の数字についてはそのまま同じ、死亡者数は38人、累積感染者数は2247人。

 明らかに、コロナ禍は7月以降の感染拡大を如実に示している。

 大うつけ安倍晋三政権は、官邸(政治)主導(内閣人事局による官僚支配)とはいいながら、結局は取り巻きの元官僚たちの言うがままに操られた愚策と悪策の繰り返しに終わり、コロナ禍で馬脚を現した側用人たちの、愚かとしか言えない失政手管で、この国の官僚が抱える大日本帝国時代直伝の官尊民卑体質のまま国民民意からの乖離という、昔ながらの轍を踏んで瓦解した。このことは、結局次のような意味合いになるだろう。

 民主政権でさえ例えば鳩山失脚の大元である普天間問題一つとっても官僚差配に振り回され(外務防衛官僚の嘘とデマに総理大臣までもが騙されたという話)、マニフェストだった政治主導の国政運営に道筋を付けられなかったわけで、普天間問題の本質である、日米安保体制が抱える「国策と民意の乖離」問題(地位協定問題等)を、一歩も半歩も解決方向へ進めることができずに終わった。ここに見られるのは、遠く明治改革以来の官僚支配の実態が、この国の戦後における、正常で国民主体の政治へ、当然に移行すべき健全化を阻んでいるということだ。この事実は恐らくこの国の政治的絶望の本質を形成しているのであり、国民はじめ政治家の「シジフォス神話」、終わりのない劫罰的運命にある我々の、不可逆な時代環境を底打ちしている。

 しかしながら、官僚とは何か?と問うとき、その情報収集能力、あるいは情報分析と総合力の卓越性、世界情勢読解力の優秀さなど、この国の知の方面の群を抜いた力に関しては異論をさしはさむ必要もない。従って、政治の役割はかかる官僚の知を如何に正しく使いこなすかという一点に掛かっていることは間違いない。それは(権力上の)力学的観点からだけ考慮されるべき話ではなく(支配・被支配の関係ではなく)、立法府である国会という場においてフルに活用されるべき能力という観点で考えるべきことだ。

 菅氏は、安倍政権時の側用人政治を踏襲すべく取り巻き官僚を持たない政治家だと目される。但し、これまで彼が見せてきた官僚差配の辣腕ぶりが示す通り、取り分け安倍政権下では明確に官僚支配の政治家であり続け、安倍晋三以上の私家政治を(官僚意見によって自説を曲げずに)強力に推し進めるタイプと見做される。しかし彼はどうやら、ネット人種並みに、答えをどちらかといえば「知恵袋」や羅列される解答群の中に探す、定見のない三流政治家(稟議を尽くした結果としての最善の答えを追い求めない)と、大向こうからは見えてくる。

 いずれにしろ戦後政治環境にあって我々が見るところ、自民改憲草案にある通り、現行自公政権下では「自由」は「国家統制(制御)」され、「民主主義」は「国家主義」に取って代わろうとしているわけで、様々な政権施策の方向性は明らかに戦前価値観へ180度転換しつつあり、又失われた8年で極めて変更困難な国柄をぶち上げてしまった(戦争国家、警察国家)。安倍晋三が示した私家政治の片鱗は「独裁」に究極する全体主義にほかならず、その失政の本質は結局果たしえない政治責任マニフェストや公約の実現)という重い枷に何らの意地も見せることなく、空しく埒外に自ら転落する運命を辿った。そこには、この国の大部分の政治家が如何にしても到達できない、近代日本の抱える重い課題が見えている。

 沖縄に関しては、河野などの不勉強な沖縄半可通担当大臣がまた如何にもそれらしく「辺野古唯一」をくりかえし、到底琉球救済に先鞭をつけ得ないことは初めから分かりきった事ではあるが、河野に限ったことでもなく、沖縄のことはやはり独立へのスプリングボードこそ必要不可欠のものであり、それを他にいじましく求めても詮方ない事だ。(つづく)