沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

詩の終わり 官僚主導は完全封殺、政治主導は側近政治に堕す

 安倍内閣側用人(今井何某以下)政治は恐らくは、いじましいまでの政権維持我執・権力護持あがきが最終段階に至るまで、この国を徒に誤誘導する以外には、外交財政安保他にわたり何らの国政成果も齎さない(それどころか財閥偏重トリクルダウン政策や従米主義によりいよいよ国柄を下げ格差を広げる作用が顕著になってきている)ばかりか、歴史的学術的検証などされない危険で中途半端な「国家主義」が、戦後的「民主主義」縛り(日本国憲法が担保していた)の一切を「法的」に言えば(隠蔽、改竄、データ破棄を旨とする)解釈画策で捩じ切り、国家主義的独裁的(ファシズムまがいの)権力私的濫用により、三権分立の大前提を事も無げに崩壊させてやまないだろう。この国では今後、悪辣政権による稟議なしの独断専行が繰り出す民殺病原菌政治が、現行新型ウイルス感染症パンデミックのように日本国民の体幹をじわじわと浸潤することになる。

 歴史は繰り返すという、安倍自公政権にあってはその政治本旨が国家主権・国民滅私奉公、所謂戦前価値の踏襲という道筋にある以上、間違いなく流れはあの忌まわしい歴史(覇権的帝国主義的侵略行為の末の無様な国家的敗北の歴史)の再現という大団円に向かっている。問題は、結果(敗北は戦争ばかりが然らしめるのではない)この度もまた国民は、またぞろ「知らなかった」「騙された」と大まじめに言い訳して、せっかくの「主権在民」保障憲法を半ば権利放棄(選挙権等)によって反故にし、事大主義的に「総論賛成各論反対」(世論調査内容の傾向)のうそ寒い実態のまま、玉虫色の在り様でその時を迎える、ということに尽きる。

 現代にあっては戦争は必ず二項対立(戦争と平和)の一方にあるわけではない。安倍一派がいかに仮想敵脅威に国民を引きずっていこうとも(一時的に米国の戦争に巻き込まれようが)この国は本格的の戦争するだけの物質的精神的仕組みを持ちえない質にある。仮令小規模偶発的な戦闘状態が訪れようとも既に憲法上「戦争放棄」を世界に宣した国に自力で戦時体制を維持する用意は最初からないし、臨時的に憲法改正して完全武装化してもこの国の国民には通常言われる国防意識など本質的に欠けているのだ。まさに闘いようがない国なのだ。これが三島由紀夫がその最後の言動において示した国自体の「絶望」の本質であり、日本国が今後覇権国家足りえないどころか、独立国家にさえなれず永続的「敗戦国」身分から一歩も出ない三等国に終わる所以だ。

 今、安倍一派がやっている政治の根幹は明らかに所謂側用人政治、宦官政治、お飾りだけの無能無益な大臣どもをひな壇に並べただけの、幼児的亡国政治体制というほかない。しかしこういう体たらくを許して異常な支持率を献上しているのはほかならぬこの国の有権者だ。戦後の丸山 眞男や戦前の朝河貫一が指摘した、この国の民のある度し難く性向化した特徴的な傾向がしからしめているものであろう。

 この性向を改善する方途は残念ながらない。しかし三島由紀夫が絶望した地平は「民衆への絶望」だった。そして彼の出自もまた一種の特権階級にほかならず、知的な意味で彼には「民衆への絶望」を語る資格はないのかもしれない。

 ほかならぬ沖縄において展開する「民衆の闘い」は、そういう知的な絶望を超えて何故か不思議な「希望」を予感させる。そういう沖縄は国内唯一の「天皇が見捨てた土地」であり、天皇制を不倶戴天の敵としてやまない。これがまた、三島と袂を分かつ唯一つの、真逆の立ち位置であり、知的な絶望を拒否する、「民衆的な希望」という意味の希望の地と言えるのである。但し、このことをヤマトゥが理解するのは一体どれくらい先の話であろうか。(つづく)