沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

詩の終わり 現代という時代を超えて生きる withコロナでもコロナ後でもなく

 「吾人は須らく現代を超越(せざるべからず)すべし」、とは、高山樗牛箴言だが、超越するにはその「現代」をはっきりと見据え、認知し、かつ正確に認識しなければ事は現に実を挙げる事にならない。

 「現代(げんだい)は、その時代言及される時点において、現に今、進行している時代」

とウィキペデアは記述しているが、これは正確には「現在」であろう。時代として捉えられる「現代」は多分現在進行形に限局せず、既に過去に属しながら現在に強い影響を及ぼしている時代をも含めるのが妥当だと思われる。

 しかして、現にその過去を事実として改竄し、あったことをなかったことにし、あるいは所謂「修正」を加えて自家規範のうちに組み込み別の歴史をでっちあげる、ということが行われている。この動きに連動しかつ帯同する「post truth」なる世界的現象がこの10年弱の「現代」で、見るから顕著になっていった。そこに見るのは大方「嘘」、あるいは個別的価値観からの既成(既定)価値観への攻撃と讒謗、誹謗中傷、つまりは暴力的劣性分子の騒擾、街宣行為、といった、理論も何もないし当然に論理的な説得力や倫理的な感応力などかけらもない、そういうモブ(全体主義に加担する大衆、烏合の衆)が蔓延る時代を目の当たりにすることだった。

 ネトウヨ日本会議歴史修正主義者、あるいは政権における私家政治の横行、嫌韓嫌中思潮、沖縄琉球差別、官僚の国策的思考停止(辺野古唯一)、原発再稼働、原発セールス、核禁止に関する原爆体験国の不可思議な在り様、優生思想と淘汰主義、大企業優遇政治(アベノミクス)、あり得ないトリクルダウンによる国民騙し、モリカケサクラ事件、学問の自由への牽制、メデアマスコミへの政治干渉、批判的ジャーナリズム力の減退、政府による国家危機への劣悪対応、こういう現象事案は現代の、最も容易に見つかる負の部分に違いない。

 米国大統領選でトランプが事実上敗北したのだが、バイデン同様彼もまた7000万票以上を得ているわけで、これは米国民主主義の圧倒的勝利というようなものではなく、従って世界のpost truth現象に決定的な終焉を告げたものでもない。

 ある種の声にならない声や叫喚、「ええじゃないか」といった理屈で測れぬ情念の迸りは、無茶苦茶な暴動やpost truth的でたらめでなく、正当な社会運動として成立させるに、当然一定の指導的理論を導き手として必須のものとする。しかし現代的特徴はかかる英雄的先導媒体を集中的に支持する基盤の不成立に結果する。

 一人孤高をもって悦に入る、悲嘆にくれるといった屈原の絶望は、その重さにおいて現代ではより複層化した苦悩として精神界の諸相にシジフォス神話的に現れていると思われる。

 ところで最も現代的で致死的な病的傾向と言われる悪性新生物の襲撃である癌腫の出来は、過剰な繰り返される生活上の習慣的な行為が多く原因として考えられるというエビデンスがある。喫煙、飲酒、塩分過剰摂取、運動不足、野菜果物不足、などだ。又、それはその出来から10年程度あるいはそれ以上の時間的経過をもって増殖期に入り、目に見えて症状化する。つまり所謂早期発見というのは1mm程度の大きさ(増殖期以前)になった時点での発見で、其処に至るには何年かの時間が積みあがっている。そして最も重要な事実は、それの(大きさでなく)侵食程度が如何ほどかという判定によってある程度生死を分ける深刻さに見極めがつくということ。

 現代という癌腫はそれが我々にどれくらい深く関わっているかで絶望の度合いを決すると思われる。ここで考えられる最も重大な危機的事案は言うまでもなくコロナ禍であり、その対応如何でどこへ行くかもわからない、癌腫以上に厄介な、長期に亘る自然界の襲撃と見做すところだ。

 少なくとも我々は、コロナ禍を予防的に臨床治療的に、あるいは症状軽減や後遺症対策の完全な解決という視点で見たとき、人類がこれにほぼ全く至っていないことを何となく知ってしまっている。従って、国家政府や識者、専門家などが現在執り行っているあらゆる発言公言の数々を殆ど信用ならないものとどこかで感じているし不幸なことに、歯止めの効かぬ政治環境(機能不全の政権下の劣悪な政治環境)が我々の首を真綿で絞めているという、そういう馬鹿げたジレンマ実態に置かれている。

 つまり、現代は我々を身動きならぬ不自由な生存生活状況に封じ込め、いよいよ絶望的な環境の中に窒息せしめようとしていると考えられる。withコロナ、コロナ後への夢見がちな逃避、いずれもこういう、現実に無理筋で馴化しようとあがく我々自身の倒錯した精神状況を表している。

 現代と言う時間軸を超えると言う事、それはできないことではない。時間が相対的なものである以上、我々はむしろ易々とそうすることができるのだ。だが、意味もなく超えるわけではあるまいし、そこに超えるべき必然がある。捲土重来、自己救抜、衝動、いずれにしろ現代を超越することは、飽くまでも「自由」を手にするためであり、「色即是空空即是色」の惑いと眩暈へ決別するためだ。

 超越した時間上の自己にあって、宇宙の無限やら、ビッグバンやら、数十億の地球の破壊と創世の歴史やら、あるいは古代ローマの人々の暮らしぶりやら、大和の国の古代人の生業やら、我々の視野には大方人間の歴史や地球の歴史、宇宙創造の物語など、数限りないほどの知的精神的広がりが見透かされ、尽きない興味に溺れ死ぬ勢いだ。

 安部がさくらで検察に眼を付けられ始めた。今の検察が司法の一翼を担って、公正で明瞭な捜査手際を見せてくれるか疑問なしとしないが、一応それなりの「やってる感」は見えないこともない。GoToは明らかに国家政府のコロナ対応の不手際、乃至感染症に対する「両是論」めいた愚策を打ったという、どちらかと言えば失政を意味している。日本式は確かに一種の抑制を効かせた効果と言えなくないが、PCR等検査体制については諸外国の方が理にかなったやり方で感染拡大を防いでいる。しかしいずれにしろ、世界はコロナで恐慌状態に陥っているとしか言えない。この現代の閉塞と危機的状況は当分収まりそうもなく、人間の生業も限定的にしか展開しない。しかし精神は必ず自由を求めて、その本来の力を発揮しようと超越的にこの束縛の現状を打破する。

 弁証法は現代を具に分析しかつ止揚して飛躍する。現代を超越するのは、多分不可知論において「無知の知」から発した「知」による翼以外はない。「知」を否定する輩からは何の答えも得られはしない。(つづく)

詩の終わり 菅政権の没落とpost truthの終焉

 菅内閣総理大臣の行く末が安倍前首相同様のものだとすると、安倍が、コロナ禍に対する極めて危機管理能力に欠けた愚策の連発で墓穴を掘った事例からして、この今の日本学術会議新会員任命拒否案件は、就任初っ端に墜落した「説明したくても説明できない」無理筋の私家政治行為で、これをきっかけに主に対コロナ禍の無策を積み上げて失速、瓦解ということになるのか、いずれにしろ、並べ立てた「自助」「共助」「公助」が専ら「公助」が全く機能せず、「自助」段階で国民疲弊、自滅、崩壊というあり得ない亡国的玉砕に破裂する話となり行くらしい。

 未だに56%の支持率(朝日新聞11月調査結果)を献上する日本国民の愚かしい在り様から、上記シナリオは事実上折り込み済みの話で、最早待ったなしの自決的覚悟が要求される事態だ。トランプは何故拒否されたか、この現行米国有権者の意思はどこにあるのか、コロナ禍に対するトランプの乱暴な精神論(玉砕的楽天主義)、その政権に明らかなpost truth的非科学的不見識な性格、人種差別的在り様、その他見るから低劣な政治姿勢に嫌気がさし、自律的自己救済ののろしを上げた結果だ。ある意味、菅のいう「自助」は、自分を救いたければ、お前さん方を助ける気もない私を否定しろという意味にもなる。奴がそう考えるわけもないが、意味はそういうことになる。

 さて、その第一の問題である日本学術会議新会員任命拒否案件は、確かに滝川幸辰事件や天皇機関説事件に相似た傾向を示唆しているものだが、本来、野放しの学問の自由からこそ国家国民に必要な生存生活の有効で有意な資材を提供する結果が期待できるわけで、そこに、本来取捨選択の客観的資格の要件を満たさないはずの一介の政治家風情がその恣意的私家政治的力学的影響を加えれば、国家国民が享受しうるべき学術的恩恵を確実に損ねることが予見され、到底国家国民の諒とするような性格のものでないことは明らかであろう。

 従って、独立的資格を付与されている、一般公務員の例外的存在である日本学術会議が選任しようとする新会員につき時の権力が何らかの介入をすることは、全く許容できない重大な侵害行為と考えるべきところだ。つまり、菅らのいう「総合的俯瞰的」見地というのは当然に独立機関(学術会議)が有する資格的見地そのものにほかならず、たかだか一介の政治家風情が客観的に無資格なはずの身分でありながら、したり顔に物申すような筋立てにはなっていないのだ。だから、彼らのごたごたしどろもどろに言い訳するその見苦しい茶番劇は、折からコロナ禍の切迫した情勢に全く逆行する無駄話であり、即刻国民がノーを突きつけ決着させるべき話に他ならない。

 ところが愚かしい国民の選択の自由(実際は知的不自由)は時に愚かしく過ちを犯し、先の大戦のような結果へなだれ込むが必定で、「憂国」は極まって国民の一人であるおのれの無力無策不甲斐なさに我知らず地団駄踏むという、情けない話になってきている。

 11月18日現在沖縄県発表コロナの状況

 入院中150人(重症者14人、中等症56人)、入院療養等調整中41人、宿泊施設療養中84人、自宅療養中56人、療養中患者計331人、死亡退院67人、累積感染者数3833人

 県警戒レベル3(感染流行期)

 直近一週間の人口10万人当たりの感染者数 16.0人(全国3位)但し累計感染者数は260.8人で全国一

 入院患者のベッド使用率35.7%(全国一) 25%を超えるとステージ3と判定される。

 現在国が行っているGoToキャンペーンが齎したというしかない全国の第三波感染状況は、日医会長が今頃になって指摘している通り現行自公政権の持つ危機管理の無能ぶりが明白であり、その発する国策めいた言動の無責任極まりない性格(先ずはGoToが第三波感染の引き金になった事実を認めず、自粛要請に当たらないという恐るべき玉砕宣言を発し、おのれらの悪策、愚策が国民に加える危難を全く顧みないのがこの政権だ)に国民はさっさと気づいて、選挙と言わずに今すぐ弾劾デモを全国挙げて展開すべき事態だといえる。

 しかし国民はそうはしない。ネトウヨ若年層の軽薄さ、国民活動の中枢を担う年齢層の政治的愚かしさ、更には無力な中高年齢層と、ほぼ過半を占める相変わらずの無定見ぶりが今後ともこの国の愚劣な現代的保守停滞主義で引き続き流れていくのは目に見えている。トホホ。(つづく)

詩の終わり 「自助」とは、国家は何もしないのでよろしく、ということ

 菅という人物は、日本国の憲法や法律がその権限と地位を定めるところの内閣総理大臣(内閣の長、三権のうちの行政府の長で内閣に属する国務大臣の一人)であり、国内はともかく?対外的には世界に向かって国(又は内閣)の「代表者」のイメージで対する者である。イメージだから実体が伴わなくともよい。問題はこの者の権限だが、当然に他の二権、司法と立法府に対してその長足りえず、二権に対して何らの権限も有しないと解される。つまり、「元首」という古い言い回しの権力者というよりは、どちらかと言えば頭一つ抜けた国会議員の一人と言わねばならない、それほどにその権限は限局されているといえる。むしろ限局されている故にこそあらゆる独裁的な権力的横暴は国家体制自体を揺るがすことになるといえる。どういうことか。

 例えば総理大臣が、その口ずから明確に「説明のできない(説明したらぼろが出る)」権力的采配を振るった場合(日本学術会議会員任命拒否案件)、先ずその法的裏付けについていえば、既に過去に中曽根元首相がこれを「形式的任命」と位置づけた先例があるのにかかわらず、現学術会議会長のあずかり知らぬところで勝手に事務方で(形式的任命権というものは)「任命義務とまで言えない」と解釈変更の謀議(というしかない)を凝らし(勿論、ある権力的上位者の支持なり命令に添って)、これに基づいて任命権者である首相、でない者(官房副長官で間違いない)が事前に6名を排除し総理大臣にあげた、という、まさに「説明のできない(説明したら必ず追及される)」経緯を辿ったということだった。

 事実関係は誰が見てもそういうことだが、ここで問題になるのは菅義偉という人物が内閣総理大臣で、その権限が局限されているにもかかわらず、専門性の高い独立機関という位置づけの、一般国家公務員と同列にはない日本学術会議の、専門的にしか評価のしようがないはずの会員に関する選任内実を、たかだか一介の国会議員に過ぎない見識(客観的評価に値しない)で一方的に決めつけ権力的に不当に評価した(官房副長官の意見に従って総理大臣が最終決裁をした)という一点で、その評価の「説明のできない」部分こそ、時の権力に批判的な意見の持ち主に対して、不当で非民主的な、時代錯誤の、結果的にはかつて横行した思想的弾圧というものを試みた(学問の自由に対する挑戦というほどのものではない)ということになる。菅他、官房長官などがしどろもどろにでたらめ答弁しても彼らのしていることは明らかに戦後民主国家体制への明白な背信行為、代議員に過ぎない輩の途轍もない越権行為、一種のテロといえる。

 一方今回の行政管理に関する越権行為の確信犯そのものであるこの杉田官房副長官は、まさに警察庁上がりの老獪で高圧的な「特高並み」のナチスヒムラー亜流であり、秘密警察並みの陰険さで官僚等支配の現体制を仕立て上げ、アベスガイズムの権力維持・独裁体制構築の立役者(陰の実力者、隠れた総理)と目されている。排除すべきはこの男だ。この男にある暴力団のドン的強権主義は、この国の戦後の悪しき保守主義路線が醸成した利権構造そのものの土台であり、post truth風潮をパンデミック化すべく機能する毒虫以外ではない。

 果たして論点すり替え学術会議攻撃は定めて様々な国家的民族的歴史的悪臭を放っているが、ネトウヨ、政治家ジャーナリスト等彼ら自身の軽薄で底の見えた正体を曝け出している。コロナ禍でも仕事をせず、おのれらの責任を「自助」責任にすり替えて専ら空虚な「反対の反対」論をでっちあげて悦に入り、そこにある答えのない答えに自己満足するていたらく。トランプといううつけの愚行に無意味な喝采を喚きたて、本来的価値を蔑ろにして倒錯した熱狂を喜ぶ。かつてナチスドイツの国民が陥った、理由のない、従って説明する論理的筋立てのない「ある声」に溺れたように、「何故熱狂したのかわからない」未来を先に立たぬ後悔とともに迎えることだろう。国民の猛省が求められている。彼らを選んだのはほかならぬあなただ。(つづく) 

詩の終わり 思考停止の官僚的差配と没落への道

 現状米国大統領選挙が、史上最悪の泥沼合戦(敗残兵の無駄な抵抗)になだれ込む様相が見て取れるが、事実上バイデン実質勝利は決定的で、トランプの悪あがき(降板後の自身の社会的転落を恐れて)が延いては米国の、ある種の世界的威信を失墜させるのは目に見えている。このような人物を押し戴いた米国民の民度の低さが目に付く。

 但しバイデンだろうが何だろうが、征服民族アングロサクソンの野蛮な軍産複合経済体制やら世界における警察的支配に何の変更もないことははっきりしているのだが、一方世界理念における米国の凋落はいよいよ目に見えて著しい。

 日本の場合、解散総選挙なしにはアベ・スガイズムの裁断は如何にしても先送りとなるわけだが、post truth現象の先行きは世界的にそう長引く様子は見て取れないようだ。所詮post truthは、21世紀の歴史の狭間にほんの数年現れた単なる一泡沫的現象形態に過ぎず、20世紀初頭以降の所謂「本質的な」悲劇的モブ現象に肉薄するようなことは、現代ヒトラー亜流をもってしても、到底歴史的潮流を変えるような巨魁となることなどできまいと思われる。

 悪の巣窟、狼の砦(ヴォルフスシャンツェ)に極まった20世紀最大の暴力組織、一国挙げての犯罪集団であったヒトラーナチスドイツは、今となっては「ファウスト」中のメフィストフェレス的ゾンビ的暗躍とでもいった奇跡的な悪のシンボルにさえなりたがっているが、トランプに見る傾向的な精神的堕落勢力には、史上何時でも息を吹き返すだけの蝟集力が存在し、それはこの日本における近来のアベ・スガイズムにもはっきり見て取れる。ネトウヨばかりか若年層の政治的軽薄さ、壮年層のまともな社会性の希薄など、これを助長する塊はどこにでも立ち現れては、正常な議論の場を引っ掻き回す児戯に休む暇はない。

 菅がその基本的な政治能力やら国家理念の欠如、挙句は答弁能力にさえいちゃもん付けられてる有様では、そのどうしようもない非論理、非倫理、無知蒙昧、がらくたのようなぼんくらぶりがいよいよ手が付けられないほどにあからさまになり、一国の首相として救いようもない仕儀となり了すことが明白になってきた。ここに見る国柄の腐敗、醜悪化、堕落等、実際有権者たる我々日本人が深刻に憂えるべきものとなってきている。彼らを推薦しているのは我々だ。責任はある意味同等にあると思われる。

 そうした中、この国は官僚主導を政治的に是正しようという旧民主党の蠢きのインパクトがここにきて官邸主導に取って代わり、目指されていた政治主導は内閣人事局による官僚その他の人事権掌握以降、ついには官僚等力学的支配並び私家政治強行の狭隘な権力暴走を助長する羽目に陥った。つまりはこれがアベ・スガイズムの正体であり、当然に万機公論に決すべき政治弊害そのものというべきところだ。今回の日本学術会議会員任命拒否事例は菅が墓穴を掘った、官邸主導暴走の一実例であろう。但し、その所為明らかな確信犯であり、力学的には明白な言論弾圧思想統制、戦前特高政治に酷似している。由々しき事態と言わねばならない。但し国民は多くこの事実を正確に認識していないらしい。

 官僚人事はともかく、官僚差配の国家体制の大元のところは決して実質上政治主導にも官邸主導にもなってはいない。そしてこのことがこの国の没落の最大原因となりうることは既に常識の範疇に入る。卑近なところでは沖縄辺野古事案(地域的優位性も軍事的要諦もほぼ皆無な政治的怠慢が引き続く前代未聞の負の遺産)であり、一体に対米従属、従米主義で思考停止した官僚差配の外務防衛路線が主役となっている(民主政権下鳩山首相がのち暴露している彼ら官僚の詐欺に近い行為は明らかな国家犯罪だ)。既にみた通り米国の失墜ぶり、凋落傾向から推しても落ち目の親分に付き従う子分の末路は、巷間の三流ドラマにも定番の在り様である。

 戦前戦中派が主体的な地位を占めていたころの戦後、返還後の対沖縄施策は、主に沖縄戦で過大で悲惨な経験を経た沖縄県民に対する哀惜哀情同情が漂うような在り様で実質的に決められていたやに聞くが、戦後戦無派がこれに取って変わるにつれその様態は真逆の傾向を明白にしていった。挙句は、沖縄県と言えば、高江辺野古に見る国家的弑逆の修羅場として我々には見えている。普天間嘉手納爆音訴訟には最早司法さえ体制権力側に加担する無様な様相が見て取れる。所謂国が自治体を訴えるという奇妙な倒錯した裁判形態がここでは日常茶飯だ。そこには沖縄戦禍にあった県民の過去を斟酌する国の誠実で真摯な態度は微塵もない。これがこの国の現在の国柄を露わにしているのであり、この一事をもってしても到底現行国家政治の民主的健全さはあり得ないものと考えざるを得ない。(つづく)

 

詩の終わり GoToキャンペーンと沖縄 其の悪しき現状

 2020年10月26日現在の沖縄県の新型コロナ感染状況(沖縄県発表)

入院中198(198)人(重症者21(21)人、中等症者59(59)人)

入院・療養等調整中32(32)人 

宿泊施設療養中99(99)人 

自宅療養中27(27)人 以上療養中患者計356(356)人 死者58(51)人

累計感染者数3194(3052)人

 以上の通り、沖縄県では(赤字)の部分が7月以降(GoToトラベル開始ころ)の数値であり、それ以前、4月30日以降全てゼロ(累計感染者数142人、死者数7人)で推移していたことを示している。しかも明らかにこの第二波と言われる感染爆発があって後、一進一退の増減が突出してここ沖縄では見られるのであって(収束の気配さえなく)、一昨日などは自民系県議団11人がクラスタ感染を生じせしめ、石垣、宮古等離島(県議団の視察先)での感染リスクがいやが上にも高まっていることを証明している(尤も彼ら自民県議団の視察内容や懇親会など見ると到底褒められたものではないhttps://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/653528)。

 観光立県として県財政シェアが大きい観光資源(離島等)が感染症の確実な出来原因となることは、つまりは沖縄県は国のGoToキャンペーンの対象として、明らかにハイリスクな対象そのものだということだ。何が問題か?県民には国策による願わしくない危難が現実の事として確実に起こっている。そこには国が為すべき救済の手立ては一切ない、と言っていい。

 先ず第一に、現行コロナに関する世界的評価はほぼ無診断無回答という有様で、WHOの見解などは、欧米が極めて深刻な感染実態を示しているといった程度の観測しかしてないということ、ワクチンは未だに事実上のエビデンスを得られず、治療薬が少しばかり治験を示すくらいのレベルだ。つまり感染予防薬は今のところ全くないということ。当然日本もまたこの世界傾向に逆行するような、明らかな、特別の実績(著しい減少傾向や収束期待値)を示しているわけではない。見たところ、日本の所謂専門家会議(分科会)の議事非開示な在り様から、明確な見通しやら収束期待、あるいは確実な防疫的見解が確立されてない、ということがわかる。

 どういうことか。国が今やっているGoToキャンペーンは、戦時中の「打ちてし止まん」特攻精神、あるいは国民総玉砕覚悟の経済展開推進(戦争?)という仕儀であり、大本営発表並みのガセデマ扇動言辞はともかく空気感がそうなっているし、大方は日本国政府の危機管理能力が如何に空洞化した実態を晒しているか国民はあきれ顔で眺めているということだ。少なくとも我々の眼には、この国はコロナ禍対策に関し全く真摯に真剣に取り組んでいる様子には見えてないどころか、国の経済はむしろ国民の故知らぬ犠牲の上に成り立つとでも言いたげだ(野党合同ヒヤリングなどで曝け出されている政府忖度答弁の官僚たちの、即応臨機における無為無策ぶりは目を覆うばかりだ、この国に公僕はいない)。

 よくよく考えてみればここにも、この国の沖縄に対する極めて非情な国策的差別があらわになっている。それはかつて沖縄戦でこの地を4人に一人が戦禍に叩き込まれる国家犯罪的な仕方で対したそれを連想させるということだ。このことは結局は、確率的に、相変わらずこの地を国内最適の国策上の「捨て石」と見做していると、思わないわけにはいかない。さらに言えば辺野古の事も今更ながら、到底独立し自立した国のやることではなく、「被占領国」の体を為してどこまでもバビロン捕囚の身分から抜け出せない。奴隷国家日本万歳!!くたばってしまえ。(つづく)

詩の終わり 憂国

 post truthにおける非論理、非倫理、反知性、非理念と言えば、突き詰めればただのやくざ、チンピラ、ごろつき、ギャングの類にしかならない。今この国は、国政はじめ政治的権力をそういう類の勢力に何気に寄託しているし、其処から初めて警察、司法、行政、剰えメデア・マスコミ・ジャーナリズムまでもがこれになびいている。言ってしまえば、今回の日本学術会議新会員任命において、菅内閣が行った違法な人事権の説明のつかない行使(排除理由が開陳されない限り昔年の思想弾圧に匹敵する国家的行為)もまた、一連のposttruth的「(良識?警察?)あってなきがごとき」政治環境から説明がつく。これが現今自公政権の根底的な性格を明示している。

 我々は、主に第二次大戦または15年戦争にまつわるあの時代に歴史的着眼点を置き、「戦前価値復活」「皇国史観再生」「歴史修正主義」という、そういう明らかな傾向にある「日本会議」直系の自公系保守政治勢力のすること、為すこと、口にすることに、明治維新以来の近代日本がして来た、多くの負の事跡のデジャブをいやが上にも見出して、体験も経験も絶無か希薄な戦無世代ながら、我々自身の歴史的追体験や想像力の連続的発展的な全面的展開により、これらへの警世的警告的反攻を企図しない訳には行かなくなってきている、という立場に置かれていることになる。我々、というのは民俗学にいう「常民」であり、知的な意味では「常識」人のことだ。

 勿論、例えば北一輝大川周明など所謂国家主義超国家主義)の泰斗と目される思想家並みの、純粋に指導的な理論なるものを今この国で見つけることは容易ではない(というよりそもそも右翼に理論などないわけで)ので、無思想、無知、という誹り以外現今似非国家主義者に向けて発するものはない。ついでに言えば昭和45年の三島事件で、この国のそういう思想方面はその後完全に亜流化するしかなかったと思われる。

 アベイズムという、空気感染のようなパンデミックが発生し、この国の8年間を汚染の非アンダーコントロール下においた安倍晋三が、本物のパンデミックである殺人的新型感染症の猛威(コロナ禍)によって、その危機管理能力欠如をその周辺ともども暴露せしめ、かくして無様にその政治的野望を、以前と同様再び潰えた格好で空しく消えたわけだが、恐らくはその下支えとでも形容すべき立ち位置で、本来的な野望なき(目指すべき国家像や目標を元々持たない宰相)ままにポピュリズム的に場当たりな諸策をさも深慮遠謀から導いたとでもいうように、そのサメのような死せる顔貌にうつろな眼を蠢かして、安倍同様事あるごとに国民の耳目を塞いで好き勝手し放題の権力の亡者になるというのが見えている、菅の末路への道だ。

 「憂国」は古い治国平天下の国士的情熱であろうか。それはしかし国というものに対するある心情なしにはあり得ない話だ。ある心情とは一種の「愛国心」だと言えるが、しかし、抑々「国」とは何かということに関して一定の定義がなければ成り立たないはずの極めて曖昧な心情だと言えよう。「日本」という国名が世上に浮かび上がるとき(ノーベル賞、あるいは国際競技などでのこと)、我々が故知らず感じる拍手喝采などのそれはしかし、この愛国心とは別物だと思われる。自然発生的なものでなく、やはり「国」というものに対する個別の明確な意識なしには説明がつかないのだ。すると、この「国」という実体のない名称(勿論国体などというものではない)に我々が見るのは、我々の中に醸成された後発的観念というものだと言わざるを得ない。当然ながらこの「国」に対して我々が要求するのは、観念であるがゆえに言える「理想」というものであり、「理想」から外れていく「国」に対する「憂国」が一般心情だ。「愛国」を胡散臭いものだと思うのも、自称「愛国者」どもがいう「国」が、多面的に考えられた「国の在り方」に添ってないからだ(保守主義の論理的矛盾)。若干乱暴な言挙げになろうが、野党合同ヒアリングなど聞いていると、公僕たる官僚たちに決定的に欠けている「国民向け」の視点であり、取分け安倍内閣以降目に余る逆賊的言動の数々が、我々一般国民の「国」に抱く一種の「理想像」から苦々しくも乖離していると思うことだ。そしてこれを強制的に助長しているのがアベスガイズムにほかならない。

 いずれにしろ、戦後日本のあげて重大な危機を意味するこのコロナ禍の中、リアリテイのない(現に実を上げることがない)、従って当然に目指すべき国柄が見えない、更には「理想」をどぶに捨てて顧みないこの現行政権を支持する日本国民の自ら自分の首を絞める行為は、到底座視すべからざる様相を呈してきている。しかしながら戦後75年は永すぎた冬であった。凍えきった国民に雪解けはあるのだろうか。(つづく)

詩の終わり 菅義偉という政治家の泥沼政治

 菅内閣が発足直後早速に問題化させた「日本学術会議会員任命」拒否行為は、大方次のような政治傾向を露呈したということになる。

 先ず、中曽根内閣で先鞭をつけたこの、首相による任命行為に関する考え方(法解釈?)に対し、菅内閣は明確にこれを否定したと取られているし、実際事実は何を抗弁しようがその通りであろう。しかしこの法解釈(考え方、基本方針、法の精神)否定は決して有効な説明内容を披歴せずに単に「私はある者(政権に批判的な知識人等)の任命を拒否する」と私的に(党派的に)表明したというに過ぎない。つまり、正確には、何ら公的な有効性を持たない首相の(ツイート的)独言を、軽はずみに明るみに出してしまった菅個人の無様な失態にほかならず、言わば彼自身の公人としての自覚のなさ(いつまでも官房長官のつもりらしい)を内外にひけらかしてしまったのだ。

 しかし問題は勿論そこに留まらず、一国の最高権力者が事もあろうに(前任者が結局グレイゾーンのまま逃亡を図った)明らかな私家政治を強行し、私的な権力保持手段を行使して、印象の拭えない低劣さを恥も外聞もなく曝け出したということだ。そこにあるのは前任者同様反知性、非論理、更に非倫理な性格に満ちたpost truth政治性だ。つまりは時代が生んだモブというべきチンピラやくざ風情の集合として、この新内閣を見据える必要がある(あくまで純粋に民主主義というものを前提するなら)。繰り返せば今回のこの問題は法(習慣法)解釈などというレベルの明らかな事実関係にはなく(従って法律問題ではなく)、極めて低レベルな私家政治の暴走、前内閣同様の失政既定路線にほかならない。

 この国の民はかく各論的に権力が為す失態など意に介さない。「他に適当な者がいないから」と言っておのれの首を自ら締める浅はかで愚かしい代議員選択に変更はない。実はこの事実の方が由々しき問題を孕んでいることは言うを待たない。疑似挙国一致内閣(国家統制を強権的に実行する内閣)の引き続くこの国では、一億総与党、大日本報告会そのままに大政翼賛会が出来上がりつつあり、メデア・マスコミ・ジャーナリズム挙って政権になびき、自由論陣から転落して恥知らずな忖度を繰り返す夜盗集団(公に申し開きのできない半犯罪集団)の国に成り下がった。官僚は「野党ヒアリング」で、その選良頭脳を鈍化し摩滅した口舌を臆面もなくダダ洩れさせ、国民が見ている前で明白な「官尊民卑」正体を曝け出す。彼らの口から出る言葉からは決して「公僕」の真摯な姿は見えてこないし、国民にあっては彼らの抱える世にも醜い組織的同性愛実態などは思いもよらないことであろう。

 所詮コップの中の嵐、愚にもつかぬ醜態でしかない。その喧騒は国が何かその陰で後戻りならぬ仕掛けを企てていると考えて置くべきところだ。(つづく)