沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

詩の終わり スガイズムの行方と沖縄琉球

 時代錯誤の疑似挙国一致内閣(但し手口は詐欺に等しい)というべきであろう。朝日新聞の9月の世論調査では菅内閣の支持率、実にあらゆる世代で7割近い数字を叩き出している。勿論男女を問わない。これはこの国の民が総論的に自公政権をこの国のかじ取りとして過半以上承認したということになろう(菅首相自身への実質的な支持ではない)。つまり、今後各論的に無数の問題が恐らく奔出するとしても、前内閣同様に「他に適当な者がいない」という理由で、変わらず高支持率を献上する状況が続く。この国の民の性向は少しも変異しない。飼い馴らされた状態が続く。

 安倍晋三側用人政治で(自律性を損ない)墓穴を掘り、難病再発を隠れ蓑に、コロナ禍の責任所在も不明のままうすぼんやりと表舞台から消えたのだが、安倍に特徴的な私家政治のグレイゾーン(もりかけさくら)を横目に見ながら、同時に菅独特の(前内閣批判に対する)「責任回避」的手練手管で、当代のメデアマスコミが不作為に(無責任に)音響高く奏でた、「たたき上げ」の純血種イメージ(勿論実質嘘である)で身を固めつつ、首相となったら「行政府の長」(司法でも立法でも彼は長でない)たる大権!を何気にふりかざして(司法も立法も踏み倒して)、前内閣で存念なく発揮していた「陰の実力者」然と、表舞台でもそこ気味が悪いほど陰険で陰湿な政治的画策に辣腕を振るうのであろう(彼の学術会議に関する法解釈には詐欺師の発想しかない、まさに法の精神を閑却して抜け道だけを追求する現政権の体質そのものだ)。

 このように、この自公政権によってこの国がどこまで回復不能の国柄に落ちぶれるかは最早わからないというしかない。ただ、必然にアナクロニズム(戦前回帰、神の国論)に覆われている自公政権下の政治がまともに諸方面で実体のある成果を上げるものとは思えない以上、野党は結束して彼らの失政予定施策につき糾弾、弾劾、抗議行動を繰り返すことだ。これは辺野古闘争の本土版であり、未来にわたって改変しがたい永久敗戦実質を少しでも突き崩し、「人間」の住む時空を確保するための劇的な精神の闘いといえる。

 辺野古闘争は(異国の軍隊のための)半永久的軍事施設を郷土の陸海空に決して出現させてはならないという、反戦、非戦、厭戦に覆われた沖縄県民の強い意思によって絶え間なく続けられている。それは他の都道府県でここまで行われてきた国策への反攻とは明らかに一線を画す。県はこれまで一度として、日米の政府が戦中戦後強行してきた基地建設を自ら望んだことはない。全ては彼らの強制と民意蹂躙によって行われてきた。この菅などはどうやらあけすけに、振興策と基地問題をリンクさせることにためらいを見せない(論理的でない理由で政策実現を図るのは詐欺師のやり口で、到底品位ある未来を期待できないのは当たり前だ)。しかも振興策といって、当初の、戦後国内インフラ整備が進められる過程で遅れて県がこれに加えられたにすぎず、他の自治体に比しても格段に莫大な予算を得ているわけでもない。「沖縄返還なしには戦後はない」という佐藤栄作の掛け声で1972年所謂「祖国復帰」は成ったが、基地は存続、核密約地位協定、と、本土政府が実現させたのは敗戦国の従米主義に沖縄を軍事的に利用しただけの、ここだけ「日本国憲法」が通用しないアンタッチャブルゾーンを設えた話に他ならなかった。

 繰り返せば、沖縄の経済は基地経済で持っているわけでもなく、そのシェアは5%程度に過ぎず、剰え、返還成った基地跡地の利用状況は膨大な経済効果を実証している。つまり、本島中枢部分(本島の2割弱)を占拠している米軍基地がなくなれば、沖縄の財政は本土依拠のそれに代わり完全に独立的に賄えるものと証明されたわけだ。

 「辺野古唯一」を馬鹿の一つ覚えに吠えているこの国の政官業学一切は、おのれらの思考停止状態を詐欺的に糊塗するためにのみこれを言い続けているわけで、彼らの中には沖縄問題に関する論理的説明が可能な者など一人としていない。

 スガイズムは、いずれにしろ理論のない国家主義超国家主義)であり、憲法精神を180度ひっくり返し、主権を国民から奪い去って、より鮮明な奴隷状態を現出させるものだ。但し、こういう彼らの奇妙な政治的野心は必ずナチズムに似て、合法性を強調しながら、従って国民の目をくらましながら、「粛々と」執り行われ実現されるものと覚悟しなければなるまい。(つづく)

詩の終わり 「日本国対沖縄」概論の3

 沖縄県9月25日発表コロナの現状

 入院中108人(重症者16人、中等症者36人いずれも国基準算定値)、入院・療養等調整中5人、宿泊施設療養中14人、自宅療養中8人、死亡者45人、累積感染者数2389人。

 7月以降のデータではいずれも上記緑色の数字についてはそのまま同じ、死亡者数は38人、累積感染者数は2247人。

 明らかに、コロナ禍は7月以降の感染拡大を如実に示している。

 大うつけ安倍晋三政権は、官邸(政治)主導(内閣人事局による官僚支配)とはいいながら、結局は取り巻きの元官僚たちの言うがままに操られた愚策と悪策の繰り返しに終わり、コロナ禍で馬脚を現した側用人たちの、愚かとしか言えない失政手管で、この国の官僚が抱える大日本帝国時代直伝の官尊民卑体質のまま国民民意からの乖離という、昔ながらの轍を踏んで瓦解した。このことは、結局次のような意味合いになるだろう。

 民主政権でさえ例えば鳩山失脚の大元である普天間問題一つとっても官僚差配に振り回され(外務防衛官僚の嘘とデマに総理大臣までもが騙されたという話)、マニフェストだった政治主導の国政運営に道筋を付けられなかったわけで、普天間問題の本質である、日米安保体制が抱える「国策と民意の乖離」問題(地位協定問題等)を、一歩も半歩も解決方向へ進めることができずに終わった。ここに見られるのは、遠く明治改革以来の官僚支配の実態が、この国の戦後における、正常で国民主体の政治へ、当然に移行すべき健全化を阻んでいるということだ。この事実は恐らくこの国の政治的絶望の本質を形成しているのであり、国民はじめ政治家の「シジフォス神話」、終わりのない劫罰的運命にある我々の、不可逆な時代環境を底打ちしている。

 しかしながら、官僚とは何か?と問うとき、その情報収集能力、あるいは情報分析と総合力の卓越性、世界情勢読解力の優秀さなど、この国の知の方面の群を抜いた力に関しては異論をさしはさむ必要もない。従って、政治の役割はかかる官僚の知を如何に正しく使いこなすかという一点に掛かっていることは間違いない。それは(権力上の)力学的観点からだけ考慮されるべき話ではなく(支配・被支配の関係ではなく)、立法府である国会という場においてフルに活用されるべき能力という観点で考えるべきことだ。

 菅氏は、安倍政権時の側用人政治を踏襲すべく取り巻き官僚を持たない政治家だと目される。但し、これまで彼が見せてきた官僚差配の辣腕ぶりが示す通り、取り分け安倍政権下では明確に官僚支配の政治家であり続け、安倍晋三以上の私家政治を(官僚意見によって自説を曲げずに)強力に推し進めるタイプと見做される。しかし彼はどうやら、ネット人種並みに、答えをどちらかといえば「知恵袋」や羅列される解答群の中に探す、定見のない三流政治家(稟議を尽くした結果としての最善の答えを追い求めない)と、大向こうからは見えてくる。

 いずれにしろ戦後政治環境にあって我々が見るところ、自民改憲草案にある通り、現行自公政権下では「自由」は「国家統制(制御)」され、「民主主義」は「国家主義」に取って代わろうとしているわけで、様々な政権施策の方向性は明らかに戦前価値観へ180度転換しつつあり、又失われた8年で極めて変更困難な国柄をぶち上げてしまった(戦争国家、警察国家)。安倍晋三が示した私家政治の片鱗は「独裁」に究極する全体主義にほかならず、その失政の本質は結局果たしえない政治責任マニフェストや公約の実現)という重い枷に何らの意地も見せることなく、空しく埒外に自ら転落する運命を辿った。そこには、この国の大部分の政治家が如何にしても到達できない、近代日本の抱える重い課題が見えている。

 沖縄に関しては、河野などの不勉強な沖縄半可通担当大臣がまた如何にもそれらしく「辺野古唯一」をくりかえし、到底琉球救済に先鞭をつけ得ないことは初めから分かりきった事ではあるが、河野に限ったことでもなく、沖縄のことはやはり独立へのスプリングボードこそ必要不可欠のものであり、それを他にいじましく求めても詮方ない事だ。(つづく)

詩の終わり 「日本国対沖縄」概論の2

 国基準で重症者26(20)人、中等症者63(68)人、入院療養等調整中16(16)人、宿泊施設療養中15(18)人、自宅療養中18(18)人、療養中患者237(240)人、死亡者41(41)人、累積感染者数2259(2244)人となっている(2020年9月10日沖縄県発表)。()内緑数字は2020年9月9日のもの。https://www.pref.okinawa.lg.jp/site/hoken/chiikihoken/kekkaku/press/20200214_covid19_pr1.html

 第一波収束(新規感染者数0)の始まりは5月初めで、それが7月初めまで持続した。つまり7月以降、上記記録(現在)に至るまで、顕著な増加を見ることとなる。このうち、重症者、中等症者以下療養中患者まで、全ての数値において、7月以降計上された数がそのまま示されている(7月になるまでは現れてなかった数字だ)。累積患者数は2117(2259)人、死亡者34(41)人で、7月以降の数値的な拡大は明白だ。因みに第二波の端緒は県民の海外渡航者や県外からの帰還者だった。そしてGoToトラベルが始まった7月下旬以降、棒グラフの山は急こう配の形状を見せる。如何に政府が黙過しようが沖縄では明確に政策の由々しきミステークが、あり得ない被害状況を作り出したといえる。それは県の観光立県としての立ち位置の難しさを考慮したとしても、県外からの渡航者に制限を掛けえなかったとしても、到底看過できない国の、本質的な意味の安全保障姿勢の欠陥として追究されねばならない事実である。

 こういう場合に立ち至っても菅官房長官は県に対して療養者宿泊施設の確保について図々しくも(おのれらの愚策ぶりを棚に上げて)あり得ない苦言を呈した(彼の自助共助公助スローガンが意味するところ、旧帝国官僚並みに官尊民卑が露骨に示されている)。

 県在住、移住者の筆者に感得されるのは、「日本国対沖縄」という対立図式通りの、権力者の居丈高で不遜な「沖縄いじめ」、その心底に間違いなくある「民族的差別」、であり、延いては国際社会において司法通念上恥ずべき「内国植民地主義(同一国内の一地方自治体に対する自治権破壊行為)」、という印象以外ではなかった。

 この全世界的なコロナ禍にあってさえ「対沖縄」の内容は分科会(沖縄は下火に向かっているという発言)もそうだが到底同一民族、同一国内自治体に対する国家政府の在り様とは思えない。勿論移住者の感じ方を言っているだけで、県民が等しくそう思っているかどうかはわからない。

 安倍晋三の、鼻の先で小ばかにするような脂下がった顔相に比べ、菅義偉ヒトラー内閣のゲッペルスを彷彿とさせる残酷で冷血なものがあるが、国民はその正体、実態について殆ど「奴隷的に」しか知ろうとしない。「奴隷的に」というのは、日本人には馴染みのない表現なのだが、魯迅の「賢人と馬鹿と奴隷」にある「奴隷」のことだ。

 解釈は如何様にも取れようが、国民にはこの三様の様態があり、魯迅が等しくこれらを批判的に扱っていることは見て取れる。つまりいずれの場合も表面的な皮肉以外に在り方に関して本質的に洞察する必要性を示唆している。少なくとも国民は全てこれらの要素でできていて、逃れようもなくそのようにしか在りえず、生きえない。このことが前提だ。

 先ず、全ての国民は「奴隷」であり、何者かに付き従ってその者の言う通りにしか存在せず生きていない。但し彼はこの自分の在り様に何時も不満を抱えている。しかし何故不満なのか、何に対してそうなのかわからないし、何となくわかってても何時も不満を解消することの不可能性にだけ目を向け、ため息して終わるのが常だ。彼はそうして何時ものように奴隷として生活し生存を続ける。時として不満を爆発させるが当然にその場限りだ。この奴隷の在り様の中に「賢人」と「馬鹿」も、いることはいる。(下線部がそうだ)

 魯迅は自国中国の民の閉塞状況に鑑み、啓発の意味でそういう言い方をしている。カフカは「文学は覚醒を促す」と言ったというが、酔いどれる民の目を覚まさせ、より良い生存生活を引き寄せる行動こそ求めたのだった。

 運転教習では人間の運転行為の内容を「認知」「判断」「行動」という分け方で説明している。正しい「認知」つまり覚醒するということからすべては始まり、正しい「判断」を下すことで「行動」の保証が為される。しかしあくまで「行動」することが前提であり、「行動」の一歩手前で終わるのが「賢人」だ。正しい「認知」「判断」をして「行動」するとき、真の救いはある。一方「奴隷」は、奴隷である限り正しいそれらを「行動」として表すことが決してできない。何故なら対象を正しく認知しないし、服従することが習い性となって盲目に生き続けるだけだからだ。

 それでは「馬鹿」とは何だ?これが最も難しい。彼は「奴隷」の不満や現状がすぐさま手に取るようにわかり、「こうすればいいじゃないか」と言って壁をぶち壊すことができる。ドン・キホーテがそうだ。しかし彼は風車という敵に果敢に向かっていくが残念ながら風車は風車でしかない。彼に欠けているのが「正しい認知」であり、彼もまた彼自身奴隷なのだ。正しい認知に至るには?

 先ず驚くのは、安倍辞任の報が流れた途端、この内閣の支持率が低迷から一挙に跳ね上がって、元の木阿弥に戻ったことだった。しかし飽くまで人が奴隷以外ではありえない以上この現象は実に馬鹿正直に国民の実態を示唆しているといえる。よくよく実相を眺めると、この国の民はどうやら魯迅の時代の中国人と変わりがない「前近代」の民なのだ。

 封建時代が「前近代」だから、今国民は封建時代の民といえる。あの時代、百姓は生かさず殺さず、商人は卑しい身分、支配階級である武士のみが人間だった、陽尊陰卑で皇室や公家を埒外に置き、.....

 差別、ヘイト、誹謗中傷、ネトウヨ的画策で抑え込み「自助」(自己責任)を強いて政治的責任に頬カムリし、捏造、修正、捻じ曲げで国民の目をくらまし、アンダーコントロールという嘘を平然とかまして世界を欺き、自己利益と仲間優遇で悪の砦をぶちあげ、「ナチスの手法」に倣ってゲシュタポ親衛隊が暗躍する警察国家、司法も立法もなぎ倒して「行政の長」が君臨するそういう国家、これはまさに前近代そのものだ。

 確かに旧支配階級が、上から行った改革としての明治維新以降、国民はその権利の「奴隷的身分」という幼弱な地盤の元、ついにどこまでいっても主体性を確立できてなかった。現人神に仕え、大君の辺にこそ死に場所を求め、滅私奉公、挙句は国の敗残という瓦解、そして連合国支配の継続、今もって他国の軍隊に好き放題勝手し放題の治外法権に甘んじている。日本人は、いつになったらこうした境涯に楔をぶち込もうとするのか、自分を奴隷と見做して憤激するのか、...........

 沖縄は、今後ともこの国の中でどうしても異種の異族的な扱いを受けること間違いない。沖縄はここまで明らかに「奴隷」であることを強いられている。「救い」を求めるなら、これが沖縄の人が判断と行動のために認知する前提となる。(続く)

詩の終わり 「日本国対沖縄」概論の1

 現在の沖縄から見れば、近年「日本国対沖縄」という関係性が高江・辺野古問題等を通じ益々確定的に問題化されて来ている(と、思っている)ので、例えば現政権の「安倍晋三が体調不良で辞任、菅官房が次期総裁候補優勢」「菅体制は安部路線踏襲(振興策基地問題リンク論)」という風な情報は、多くの弑逆実態に置かれている沖縄からすれば些細なコップの中の嵐、耳障りな騒音としか受け止めえない話になっている。

 これは勿論、今次コロナ禍における政府対応の拙劣さや、GoToキャンペーンが明らかに齎した感染拡大弊害(累積感染者数爆発、重症者・中等者・死者数増大、医療環境の逼迫)の沖縄特化傾向などにばかり由来しているのでないことは、少しばかり沖縄を知る人には容易に了解されよう。筆者に言わせるなら菅の、感染者宿泊療養施設確保に関する県に対する苦言?や、感染者が出た辺野古工事の強行など、殆ど前世紀の話にしか思えない。

 少なくとも安全保障(軍事でなく基本国民の命を守るという前提)の現実的な観点から物申せば、今の自公政権における安保理念はほぼ幻想的な机上の空論を仮想的に具現化する内容(国民福利より軍事的拡大を先決する)で推移しているというほかない。例えばこのところ毎年のように、何度も立て続けに起こっている激甚な災害(台風、集中豪雨、洪水・土砂災害等)、人的被害の連鎖的な勃発(浸水被害、家屋倒壊、生き埋め等)や、異常気象下の日本列島における、種々の、明らかに通常想定を超えた現象(コロナも含まれる)に対して、この国は危機的に総合的な見地を欠いたその場しのぎの応対で済ませているという評価は、的を射ている。つまり本質的な安保というものはおざなりになっているという話だ。

 戦略的・軍事的・国防的な意味で言えば、抑々日米安保体制そのものが沖縄では全く歓迎も評価もされず、その廃棄をこそ大多数が望んでいることは世論調査に数字として示されている(ほぼ8割が安保反対)。おまけにこれまで喧しく論じられてきた普天間返還論議は「政治的理由」という前代未聞のこじつけ論がまかり通るというでたらめ。またミサイル戦略上海兵隊(陸上殴り込み部隊)は向後有名無実なものとなりつつあり、更には戦時的即戦的な意味での同盟軍(米軍)は実質的法的に存在しない(戦時における在日米軍最重要課題は米人の救出・脱出にほかならない)のだった。

 にも関わらず思考停止して闇雲に従米的に、日米安保体制を推進強化していた安倍政権やそれの追随者たちの権力闘争など、勿論沖縄にとって無意味で無益なものであり、彼らの安保悪策の典型として当然に辺野古がやり玉に挙げられる。そしてその愚策のツケ(血税)は国民が何気に支払い続けているということに当の国民は気づこうともしてない。同時に、同胞への負担押し付けにも甚だ無関心、無反応をやめない。

 自公政権のみならず殆どの政治集合が日米安保を容認し、国民がこれを必要悪と考えていることは世論数値に明白だが、対して沖縄が全く逆の数値を変わらず出しているのは日米安保=米軍基地=基地公害という連環から割り出された当然の結果であり、それだけ当事者にとって基地にまつわる人的被害は深刻な意味を持つものだといえる(世界一危険な飛行場を持つ沖縄)。

 いずれにしろ、「日本国対沖縄」はこの先、異種民族間の対立とさえ極論する話になっていく。沖縄県民には、日本政府や日本国民の考え方が常に「上から目線」「頭越し」と見えているし、それは結局大東亜戦争という、彼ら(日本会議等)の言う「聖戦」なる妄想を基本とする、侵略戦争への猛進を促した旧大和民族?の傲慢にして利己的な精神に通ずるものだ。

 さて、コロナの沖縄現状は(国基準では重症者20人、中等者78人)入院中241人、入院療養等調整中23人、宿泊施設療養中21人、自宅療養中26人、死亡36人(7月以降29人)、累積感染者数2229人(2020年9月7日県発表)となっている。因みに既に延長緊急事態宣言は9月5日には解除。観光立県として県経済の主要産業である観光は、極めて覚束ない状況というべき国指針のもと、いかにもおっかなびっくりで進めるしかない状況で、少なくとも検査体制の不完全性が先行きの見えない心的環境を助長しているのだから、空港港湾での徹底した検査と感染者の行動制限乃至保護を第一とし、安心安全を確実に見通したうえで観光を勧奨するという方向へ持っていくべきだ。既にこの国が何もしない機能不全を恥もせず、のうのうとふんぞり返っている在り様では、各自治体首長は最早自治権の完全執行を前提に独自の方針を繰り出し和歌山方式を執り、県民救済を実質的に諮るべき時が来た。

 事程左様に沖縄県琉球処分で強奪された独立国政体を取り戻し、米軍基地を追い出し、辺野古から日本国の蟻のような工事業者を追い払い、日米安保体制からの完全離反を宣するべきだ。当然ながら基地跡地の原状復帰は米国の責任でさせるべきであり、彼らの国際法違背状態を弾劾し、その戦後覇権支配、世界占領を糾弾し、世界理念の奪取と国際連合的欺瞞性からの解放をこそ目指すべきだ。

 パクスアメリカーナは、薄汚れた掃きだめのように堕落し、人種差別の悪辣さに満ちており、到底世界性を代表するようなものではない。そのローマ帝国的軍事的優越に気圧されることなく、日本国憲法の基本理念としての、カントの「永遠平和のために」を熟読精読し、政治的解釈的改憲のグズグズな在り様を改め、自律的国民性を取り戻すべく、明治維新以来の近代史を徹底的に洗い直し、どう考えても誤った国策で推移した日本のここまでのあり様を直視し、真摯にこの先を見通して進まねばならない。(つづく)

詩の終わり 安部君の悪口と沖縄いじめ

 ネトウヨの「安部応援」、本人がその職を辞してなお喧しいアベシンパたち、安倍からみのpost truth現象、つまりは反知性、非倫理、非論理を意に介さぬ所謂時代的社会的モブ(時代が生んだ社会の落とし子)というもの、ヒトラーナチス時代の手の込んだ再来?、その構成員はブルジョア社会からの脱落者、落伍者、そして掃きだめの中の自己主張、劣等感からの絶叫、こうした塊が例えばある野党議員の安倍揶揄に対して如何にも正当であるかのように装った安部応援ツイートを爆発させ炎上騒ぎを起こすというのは、ネット社会という極めて現代的な特徴ある空間に「新自由主義」の本質的害毒(何でもありの不作為の自由)がしみ込んでいることを告げている。

 結局、安倍晋三は「政権投げ出し」の目くらましに一度目(の投げ出しの時)に味を占めた「潰瘍性大腸炎」という難病名をぶち込んで、語るに落ちたネトウヨの謂れもない(理由の定かでない)支持をうまい具合に引き寄せ、この数か月の雲隠れの間に如何にこのコロナ禍の難局を逃げ切るか模索しつつ、毎夜のように企業トップとの数万円の会食に舌鼓を打ちステーキを頬張り大腸炎はどこ吹く風で28日を迎えたということだ(と、勘繰られても仕方がない)。

 私人の病体のことなど我々一般国民の知ったことではない。公人の辞職騒ぎの大元をそこ(病気)に究極する(作為不作為問わず)ということは、どう考えても責任逃れの目くらまし、同情を買ってあらゆる粉飾決算をうやむやにしてしまおうという腹としか、政治家に関しては言いようもない。森友、加計、桜を見る会、何より公文書管理上の明らかな意図的画策土壌(官僚忖度等)その他、到底看過できやしない数々の不祥事についてこの元宰相は何らの申し開きもできずにいるし、今後も例の嘘つき美辞麗句と隠蔽捻じ曲げ工作で司直の網を掻い潜ろうとしている(としか見えない)。自殺した職員のことでは遺族に対しこれを招いた己の責任に関し何の納得できる態度も示していない。つまり最後の最後までこの男は史上最低の政治家、徒な国民愚弄の史上最長首相経験者で終わった(というのが正直な評価というものさ)。

 とはいえ、我々の生存生活はこんなこと(たかだか一政党の総裁人事にすぎない)にはお構いなしに否が応でも続いていく。何といっても、現行のこのコロナ禍を如何に乗り切るかで頭の中は占められている。そしてこの国も世界もこれに対する明確な指針を示してないのが現状だ。或いはこの国は、世界が示したところの見解にはどういうわけか添うことをしない。

 筆者の住する沖縄では台風9号もさることながら、連日30人40人の新たな感染者が見つかっている。国基準で言えば重症者24人、中等者86人であり、入院中258人、入院療養等調整中45人、宿泊施設療養中が52人、自宅療養が75人となっている。7月以降の死亡者は21人(全28人)に及んでいる。療養中患者数430人、累計患者数2143人(2020年8月31日時点)。相変わらず陽性率は全国一だ。明らかにGoTo以降感染拡大が顕著であり、沖縄自体がその後エピセンター化している。

 こういう沖縄の、国策による明らかな被害実態(アクセルとブレーキの同時使用による中途半端な国策)に触れると、敷衍して、今更ながら基地問題等、少なくともこの沖縄に関するこの国のヘイト体質、近隣アジア蔑視(先の大戦の本質的原因)、加えてこの自公政権の似非国家主義憲法違背の反民主性)、安部一派の従米主義(幻想的国防思潮による「核の傘」自慰行為)が、如何に沖縄を謂われのない受難境遇に貶めているかがはっきりしてくるようだ。言ってみれば、沖縄県民は決して受難思想など持ち合わせない(イエスキリストではない、コロナなどごめん被る、但し観光立県の立ち位置には変わりがない)し、かつてのユダヤの民のようにさまよえる人々でもなく、常にそのアイデンティティに基づいて琉球島嶼に独自の文化圏を構成してきた一独立国家だった。侵略してきたのは日本人だ。

 一方、繰り返せば、今や普天間問題は問題というものですらなくなった(その返還は最早現実性がなくなり辺野古は独り歩きしている)。当の辺野古はこの国のでたらめ国策の犠牲者に過ぎず、その一点でこの国の対沖縄施策が打倒されるべき話になる。そして血税の恐るべき無駄遣いがこの完全な誤った国策においては連綿と数十年にわたって続けられるという。何のために?何のためだろうか?

 恐らくは、2+2外交において官僚たちが基調として持っているのは、「普天間返還」という大義とは、何の関係もない辺野古新基地建設(という条件こじつけ)なる、60年前の米国主体の沖縄軍事占領計画にどういうわけか乗せられ、後戻りならず、ここで思考を停止してこれに凝り固まった結果、到底理屈に添わない沖縄問題を準備してしまった、という思いだ。

 彼ら関係官僚が辺野古計画以外の道を決して求めない理由は我々にはわかられてない。前民主政権時首相さえ騙されたという、官僚の停止した思考の中身は結局、日本の官僚自体が持っている旧態然の「旧帝国官僚的」官尊民卑思潮、砕いていえば「国民は馬鹿だから、利口で優秀な我々官僚の言うとおりにすればうまくいく」という優越的選良意識にほかなるまい。つまり彼らが選んで立案する政策は最善の最高のものだと。敗戦後解体された大日本帝国の中でも官僚組織はそのまま残った。言わば生き残ってしまったゾンビがそうなのだ。

 彼らは思考停止どころか、もしかしたら生きてさえいないのかもしれない。死んだ人間がこの国の国策の枢要を担っているとすれば、旧帝国時代の悪弊が亡霊のように現代日本に無批判に幅を利かせているということになる。してみるとアベイズムとはこういうゾンビ集団の手になった死せる者のための政治とさえ言えるわけだ。なるほど、辺野古や高江でこの国がやっていたことはまさに戦前の官憲の所業そのものだった!おまけにこのコロナ禍ではアベノマスクやなんとかや愚にもつかない施策ばかりが恥ずかしくもなく実行されてきた。今やアベノミクスもその命脈を絶たれている。官僚の操り人形、安倍晋三は結局死せるゾンビの言うとおりに、何でもかんでもさも最高の方策とばかり「決める政治」とやらをやってきたおかげで、史上最低の時代錯誤の総理大臣となって病気を理由に退陣に追い込まれたということか。

 ということで、安倍君の悪口はもう意味もなくなってきたし、あとはこの国の司直がまじめにやってくれればいいのだが、どっこい、アベイズムはゾンビだからどうなることやら。(つづく)

詩の終わり 取り返しのつかないことをしてくれたなあ安部よ

 安倍晋三の首相辞任の事は、この国の本質的な意味での極めて重大な局面として捉えてもいい(尤も彼の政治的立ち位置がそうだというのではない)のであろう。

 彼の失政は中途半端な問題性の渦中にあり、到底まともな論議の対象足りえないと先ずは断じておく。恐らくは、安倍晋三の私的な公人性格(お友達優遇、側近政治)が醸した、犯罪性の高い政治姿勢から出てきたもの(森友、加計、防衛省桜を見る会等)が多くの法的な立証対象となり、同時に官邸掌握人事権の恣意性がこの国の官僚行政一般を倫理的にかつ論理的に堕落せしめ、司法も立法もなぎ倒して公的な絶対的価値(後刻客観的検証に耐えうる価値)を損ない、歴史的過誤を犯すことで今やこの国を三流国家の乱脈政治環境に貶めたのだった。この信用失墜という致命傷は後続の政治家には重い課題を抱えさせることになろう。

 こういう、ある意味あいまいな(白黒はっきりしない)評価の中でこの国の今後を見ていくのは国民にとっては不幸な話には違いない。この不幸はしかし我々自身が招いたものと思うしかない。何故安倍政権を長きにわたってのさばらせたのか。何故自民系政治集団に舞い戻ってしまったのか。何故一度民主制に目覚めようとしたのに元の澱みにはまって抜けなくなってしまったのか。明らかに金権政治集団で、しかも日本会議国家主義まがいの、民主制破壊以外国民のための政治など考えようともしない彼らに権力を与えてしまったのか。

 当然あるのは政治的絶望という国民心理であろう。私見によればその大元は現行官僚体制の根本的な体質にある。それは此処沖縄に住んで初めてわかったことだった。取り分けて普天間問題に関しては最早外務防衛官僚による2+2外交が元凶だというしかない。それは悪の巣窟、恐らくは政官業学を席巻する安保マフィア集団と軌を一にしたこの国の保守系人群の仕業ということ。

 何故日本の保守系人群がいけないかというと、三島由紀夫も言っているが、先ずは彼らが保守しようというものが何なのかということ、「愛すべき祖国」という言い古された文言に含まれる祖国は一体国民に何をしでかしてくれたのか、何をしてくれるから愛すべきなのか、抑々愛するという心情の在り様は愛するに足る、愛する価値があるから愛するということであろうし、古い日本の伝統的な「美」への憧憬から発するのであろうし、誰かに外から、これを愛せよと言われて愛するがものでもあるまい。してみれば、保守系人群が保守しているものの正体がわからなければ国民は自ら保守しようもないということになる(愛国心の根拠)。川端康成ノーベル賞受賞の弁で「美しい日本と私」と題して述べたところは、何かを頑なに保守する、ということではなく、美しいものをあるがままに見る、鑑賞する、愛でる、というだけで足り、それ以上の事はいらぬお世話だと言っているのだ。今次、沖縄の国宝、世界遺産である首里城が焼け落ちたが、かように形あるものは何時かは滅び消失し、二度と同じものは与えられないことはわかり切っている。これを(滅びないように)守ろうとすることは所詮防火設備の徹底管理だとか、いうような管理体制の拡充で事足りるわけで、大仰に保守しましょう、死守しましょうというようなものではない。愛するというのはあるがままに物やことを見、これを静かに鑑賞し、心穏やかに味わうという以外の事ではない。

 安倍政権の功罪は概してこの国の曖昧な国勢をより曖昧にグレイゾーン化し、日本及び日本人が本来持っていた美徳の多くをくそツボの中に放り込んでしまったという、度し難い人的過誤というものであった。

 そしてこの国勢の汚濁にまみれた在り様は、長きにわたる真摯で真っ当な洗浄を経なければ決して洗い尽くせぬ、滓となって国民を苦しめ続けるに違いない。

 我々の印象は、この宰相の口先だけの美辞麗句に隠れた薄汚く醜悪な本質の、目?を覆うばかりの臭気?というものだった。

 冗談ではない。今や国民はこのコロナ禍の渦中で途端の苦しみを味合わされ、政治の無能機能不全、無策、そして何より経済を回すと言って命の危険を二の次にしかも全くの逆効果な政策のせいでいよいよ底なしの地獄へ転がり落ちていっている有様だ。この政権及び政治家集団は即刻埒外へ放り出すべきだ。彼らのせいで、国民は死ぬ思いで暮らさねばならない。あいつらの自己保存パフォーマンスなどに付き合っている暇はないはずだ。まことに安部なんぞは殺しても飽き足らぬ存在である。(つづく)

詩の終わり 何をしてもどんな状態でも全て信用ならずしてはならない安倍晋三

 安倍晋三は、第一に端から信用ならないし、決して信用してはならない為政者(どうやら幼時よりその性格は嘘が先行するようなものだったらしいし、嘘をつくのは政治家の特権であるかのように信じている節がある)で、このことを先ず前提しないと国民は結局自ら墓穴を掘る愚を犯すことは目に見えているし、ここまでの流れでもそれははっきりしている(但し彼はその側用人たちの操り人形で、彼自身に有効な政策遂行の意思があるとは到底思えない)。しかし、ヒトラー並みにパフォーマンス主体に嘘八百を並べて平然としているこの宰相は、最後の最後まで国民を愚弄し、特攻的玉砕美学に没頭する以外何もしない危機管理無能政治家で、沖縄などは真っ先にその犠牲者(GoToなんちゃら)となって孤軍奮闘させられている(あの菅の言いぶりはこの政権の沖縄侮辱を地で行っていた)。

 コロナ禍は恐らく医学者等識者が先ずもって正確に把捉できてないし今後何らか確定的にさえ扱え得ないものとしてあると思われる(当然ながらワクチンのエビデンスは得られてない話だ)。分科会の専門家がくだくだ述べ立てるところを聞いていると、(政権忖度や官邸藪にらみは別としても)政策や国民向けに明確な方向性を与えるものでないことは素人にもわかる。何よりその変異性であるために今後弱毒化するのかそれとも強毒化するのかなど、誰にも予測がつかないものと言わざるを得ないわけで、「専門家の意見を踏まえながら」と必ず前置きする担当大臣の目指すところがどうしても、事態を(今やあり得ない)収束方向印象付けや軽症者無症状者割合の過大な強調により、実際の窮迫性から国民の目をそらし、経済活動の加速化を促すように持っていこうとしているとしか見えない。これは政治的な拙速さを生み、結果的にはばくちに近い性質がある。国民の命が天秤にかけられるに等しい。

 我々国民がその主権在民の実を上げんとする真っ当な生き方に立ち戻ろうというのなら、先ずは己の身は己で守るという最も基本的で重大な基軸に足場を置かねばならない。要は今やこの国は一切国民側に忠実に立つことはないということであって、はっきり言えば人民より国家が先であり、国民は滅私奉公が義務とさえ思われていて、それは自民党憲法草案にその通り書かれている。戦時国民は天皇の赤子、大君の辺にこそ死なめとばかり負け戦に駆り立てられ玉砕していったのだった。今、この政権が目指しているのはそういう風な国家国民関係であり、安倍晋三などは特攻隊の死にざまこそ国家にとっての国民の最高の在り方であるとはっきり考えている。

 ところで安部一派がいう国家とはどういう国家か?それはさておき、日本会議等の思惑思潮が一定の塊となってこの国のあらゆる階層にいきわたっていることは、少しく懸念されるところだが、実際はその勢力は国民の2割程度に過ぎない少数派であり、実質的にはマイノリテイにほかならない(ある意味カルトといっていい)。ただ問題はヒトラーナチスもまた初めはそうだったので、あらゆる手段を用いて多数派工作するのは目に見えている。だから危険であり、国民は最初から心してかからねばならなかった。

 さてその首魁たる安倍晋三首相が8月28日、在位歴代最長宰相の異名をかっさらって痛々しく病体をかこちつつその座を降りたわけだが、ここで我々が考えなければならないのは、アベイズムというものの本体たる現首相がかようにその権力を放棄しても、それは形を変え人を変えてなお生き続けるだろうということだ。

 何よりアベイズムとはナチズムのように、この国の憲政史上稀な悪の砦、総本山であり、偶々安部氏の名を冠しただけで、何時でもスガイズム、イシバイズムになろうというものだということ。何が言いたいか?現行自公政権の元では日本国憲法の最大の枢要である主権在民は有名無実化するということ。この先の話は推して知るべしだ。(つづく)