沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

詩の終わり 取り返しのつかないことをしてくれたなあ安部よ

 安倍晋三の首相辞任の事は、この国の本質的な意味での極めて重大な局面として捉えてもいい(尤も彼の政治的立ち位置がそうだというのではない)のであろう。

 彼の失政は中途半端な問題性の渦中にあり、到底まともな論議の対象足りえないと先ずは断じておく。恐らくは、安倍晋三の私的な公人性格(お友達優遇、側近政治)が醸した、犯罪性の高い政治姿勢から出てきたもの(森友、加計、防衛省桜を見る会等)が多くの法的な立証対象となり、同時に官邸掌握人事権の恣意性がこの国の官僚行政一般を倫理的にかつ論理的に堕落せしめ、司法も立法もなぎ倒して公的な絶対的価値(後刻客観的検証に耐えうる価値)を損ない、歴史的過誤を犯すことで今やこの国を三流国家の乱脈政治環境に貶めたのだった。この信用失墜という致命傷は後続の政治家には重い課題を抱えさせることになろう。

 こういう、ある意味あいまいな(白黒はっきりしない)評価の中でこの国の今後を見ていくのは国民にとっては不幸な話には違いない。この不幸はしかし我々自身が招いたものと思うしかない。何故安倍政権を長きにわたってのさばらせたのか。何故自民系政治集団に舞い戻ってしまったのか。何故一度民主制に目覚めようとしたのに元の澱みにはまって抜けなくなってしまったのか。明らかに金権政治集団で、しかも日本会議国家主義まがいの、民主制破壊以外国民のための政治など考えようともしない彼らに権力を与えてしまったのか。

 当然あるのは政治的絶望という国民心理であろう。私見によればその大元は現行官僚体制の根本的な体質にある。それは此処沖縄に住んで初めてわかったことだった。取り分けて普天間問題に関しては最早外務防衛官僚による2+2外交が元凶だというしかない。それは悪の巣窟、恐らくは政官業学を席巻する安保マフィア集団と軌を一にしたこの国の保守系人群の仕業ということ。

 何故日本の保守系人群がいけないかというと、三島由紀夫も言っているが、先ずは彼らが保守しようというものが何なのかということ、「愛すべき祖国」という言い古された文言に含まれる祖国は一体国民に何をしでかしてくれたのか、何をしてくれるから愛すべきなのか、抑々愛するという心情の在り様は愛するに足る、愛する価値があるから愛するということであろうし、古い日本の伝統的な「美」への憧憬から発するのであろうし、誰かに外から、これを愛せよと言われて愛するがものでもあるまい。してみれば、保守系人群が保守しているものの正体がわからなければ国民は自ら保守しようもないということになる(愛国心の根拠)。川端康成ノーベル賞受賞の弁で「美しい日本と私」と題して述べたところは、何かを頑なに保守する、ということではなく、美しいものをあるがままに見る、鑑賞する、愛でる、というだけで足り、それ以上の事はいらぬお世話だと言っているのだ。今次、沖縄の国宝、世界遺産である首里城が焼け落ちたが、かように形あるものは何時かは滅び消失し、二度と同じものは与えられないことはわかり切っている。これを(滅びないように)守ろうとすることは所詮防火設備の徹底管理だとか、いうような管理体制の拡充で事足りるわけで、大仰に保守しましょう、死守しましょうというようなものではない。愛するというのはあるがままに物やことを見、これを静かに鑑賞し、心穏やかに味わうという以外の事ではない。

 安倍政権の功罪は概してこの国の曖昧な国勢をより曖昧にグレイゾーン化し、日本及び日本人が本来持っていた美徳の多くをくそツボの中に放り込んでしまったという、度し難い人的過誤というものであった。

 そしてこの国勢の汚濁にまみれた在り様は、長きにわたる真摯で真っ当な洗浄を経なければ決して洗い尽くせぬ、滓となって国民を苦しめ続けるに違いない。

 我々の印象は、この宰相の口先だけの美辞麗句に隠れた薄汚く醜悪な本質の、目?を覆うばかりの臭気?というものだった。

 冗談ではない。今や国民はこのコロナ禍の渦中で途端の苦しみを味合わされ、政治の無能機能不全、無策、そして何より経済を回すと言って命の危険を二の次にしかも全くの逆効果な政策のせいでいよいよ底なしの地獄へ転がり落ちていっている有様だ。この政権及び政治家集団は即刻埒外へ放り出すべきだ。彼らのせいで、国民は死ぬ思いで暮らさねばならない。あいつらの自己保存パフォーマンスなどに付き合っている暇はないはずだ。まことに安部なんぞは殺しても飽き足らぬ存在である。(つづく)