沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

詩の終わり 正義を最後まで貫けないというジレンマに言い訳する国民

 月よりの使者月光仮面は、自らは貫けない正義を貫いて見せる謎の人物に、おのれの気持ちを託したい人民が夢に描いた象徴であり、まぼろし探偵七色仮面ナショナルキッド鉄人28号などもそういうことなのであろう。半世紀前の少年雑誌に登場したヒーローたちは、多かれ少なかれそういう人民の夢や憧れを視覚的(聴覚的)に実現して見せる格好のアイドルとなっていた。当時意識したことはなかったが、筆者における少年時代もそういう素朴な感情の中で、人生のあるいは人間の本質を徐々に現実世界へ投影するような生き方に向かい、経験化と認識、行動と発言を選び取っていくように生き始めていたはずだ。

 しかし、一方正義を貫くかどうかということは時として重大な結果を残したと歴史書は伝えている。歴史は正義の闘いを、それをする、しないで人民を酷薄で深甚な裁断の対象としたと教えている。例えば先の大戦とその敗戦は、何よりも自分たちに降りかかった運命が極めて残酷で悲惨な結果しか残さなかったのだが、つまりは(こういう結果を招いた)この国がその意味で「不正義」な戦争を実行していった事実に対し、これに抗して「闘わなかった」自分たちの過誤を歴史が裁いたという話。その人民の中には勿論(人民に正確な情報やリテラシを伝えるべき)ジャーナリズム、マスコミ関係も含まれる。当然一介の職業人にほかならない官僚たち、政治家、あるいは一般の識者、学者たちも。

 「知らなかった」「騙されていた」という言い訳は、戦後人民側に溢れたありふれた自己弁護に過ぎないが、一方で(嘘にまみれた)大本営発表を無批判に鵜呑みにした自分の、「自ら墓穴を掘る」愚かしさについてはどうやら何の反省もしていないようだ。現今安倍一派の醜悪な政治を目の当たりにしても弾劾する行動すら起こそうとしない、この国の有権者の在り様をどう説明するか。

 ところでここ2000年ばかりのヤマトの歴史において無残にかつ無様に、自ら仕掛けた戦争に敗北したという経験は、我々日本人が国民として民族として一度も味わったことのない屈辱的な、恥じ入る出来事だった。

 それはどういうことか?

 こういう(敗戦、国の敗北という)重大な深甚な体験に学ばずに何から学ぶというのか?そういうことだが、残念ながら流れは、ありきたりな国家間の喧嘩騒動で惜しくも!一敗地にまみれたというはなしになっていく。が、それはそれで当たっている。国家という単位に究極すれば、戦争は世界史上極めてありきたりな、ありふれた出来事に過ぎず、勝敗はまさにゲーム感覚で処理されてもおかしくないほどに元々無機質なものだ。かつてイラクの夜闇を豪勢な花火のように覆った米軍のミサイル攻撃ピンポイント映像は、現代戦争事情をこれでもかと映し出していたが、かのように今や戦争はまさに図上のゲームと化し、その実際の内臓は分厚い脂肪に隠れてまるで見えなくなってきている。

 然し我々は、この国が戦後ほどなくして逆コースを辿り、又、我々を盲目な護国の鬼に変貌させ、打ちてし止まん、欲しがりません勝つまでは、と奴隷の如く従わせた神格「天皇」の存続を何気に容認し、挙句は、現今安倍一派が、自公政権が、戦争放棄を宣した自国の憲法を蔑ろにし、ほかならぬ敗戦の相手である米国に犬の如く付き従って、米国のために再び戦争のできる国に仕立て上げようと画策する、その「でたらめさ」だ。

 結局あの戦争とその結果に何一つ学ばないばかりか、かの史実を否定し、あったことを捻じ曲げ、なかったことをでっちあげ、国民を誤誘導して同じ過ちを繰り返そうという為政者や、これを呆けた馬鹿みたいに熱狂支持する国民がいる、この国情を目の当たりにすると、揃いも揃って「のど元過ぎれば」の軽薄さを思わないわけにはいかない。

 我々は先の民主政権が、初めのスローガンから真逆の政治的脱落を見せつけたあのていたらく(普天間問題など)や大震災及び原発爆発で見せた機能停止事態と、現今安倍一派のモリカケ桜醜聞やコロナ事案への拙劣極まりない対応など、およそ「のど元過ぎた」戦後世代の上っ調子な「坊ちゃんドラ息子」政治を、つまりは戦後日本の民族的堕落の表れとしか受け止めえないのだ。

 しかしながら、こうした個別的な国情にありながらも我々は如何にしても人間であることをやめるわけにはいかない。どのような喧噪のさなかにも我々は我々の言動の正義、不正義を嗅ぎ分ける、そういう先天的な心情のたつきにおいて物事の理非を見分けているはずだ。そういう初発のモチーフこそが逆に物事の本質を抉り、誤った蠢きを唾棄するエネルギーとなる。

 かの、先の大戦を招来したのはほかでもない国民だ、という見方ができるのは、国民がおのれの「正義」に忠実にみずからの言動を選び取っていったなら、総体的にかの侵略戦争を未然に、あるいは途中で引き返すことさえできなくはなかったと言えるからだ。

 ドストエフスキー「白痴」の中にこういう文言があった。「現代は美しいもの、正しいもの、が主張すると全てあてこすり、皮肉、偽善に貶められる」却ってヘイトや差別、偽悪的なものが今や大手を振って市中を駆け巡っている。価値というものに対するカオスが、大洪水が平然と引き起こされている。そしてその中心にさえこの国の知的選良階級がいないことはない。彼らの驚くべき不倫が、知的不倫が胸糞悪いほどに蔓延っている。彼らの絶望?は正当性がない、おかしな言い方だが彼らが絶望した地平は、彼ら自身の特権的境遇が然らしめた無資格の絶望であり、民衆の希望とは何の関係もない。一方、民衆は絶望する暇さえないのだ。だから、そこにこそ希望がある。

 何が言いたいか?

 自分で感じ自由に考え、認識し、言葉と行動で表現することが、結局は自分たちの生きる道を確かに定めるのだということ。(つづく)