沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

詩の終わり アベイズムパンデミックとコロナの類似性

 これはイメージに過ぎないが、ベイズムのパンデミックという風にこの現行政権のことを論っていた風向きが、新型コロナという変異性ウイルスのパンデミックによって、実際上の目に見えない脅威が身辺に否応なく迫ってくるという事態に吸収されてしまった結果、言い方を変えれば、政権の害毒が本物のそれに取って代わって、人々はpost truthの事実上の危険性(政府のコロナ対応の拙劣さからくる危険性)にその側面から漸く気づかされている、というふうに事は進んでいると、考えるべきところだ。

 しかしそれでも内閣支持率は40%を切ることはない。つまり、この40%という数値には潜在的感染者という厄介な伝染媒体の実数が含まれていて、無症状で重症化しない(従て検査さえしない)が、周辺に感染を広げる機能を有する人群の存在が指摘される、ということになる。

 これは飽くまでイメージでありそれ以上でも以下でもない。安倍晋三のいくつかの記者会見で彼は、結局決定的に、事の重大性を待ったなしで国民に知らしめるための重要な何物かに欠けていた。それを(要請に留まる)法的拘束力のなさにかこつけることはできるのだが、彼のパフォーマンス的発言イメージは何処まで行ってもあのモリカケ桜に舞い戻り、その他の負のイメージと相まって、ついにぬぐいがたい「不信感」のみが漂い始めるのだ。

 「大本営発表」は最早デジャブである。我々の実際の記憶にはないが、歴史は世相的にあの時と現下の類似性へ確実に誘う。マスコミメデアジャーナリズムの在り様も、あの時の彼らのように商業ベースに乗って「歌を忘れたカナリア」になりきってしまっている。既に始まっているが、挙国一致、大政翼賛会、大日本報告会、隣組、欲しがりません勝つまでは、こういう歴史の示したこの国の忌まわしい風景が、コロナと共に再現再掲されるという、驚くべき事態を呈している。

 国の政策施策完遂のために(休業補償を拒否された)中小企業、零細企業、労働者、弱者はさながら特攻隊のように、コロナという敵艦への体当たりを余儀なくされる(補償なしでは休業できずに)。沖縄戦も始まった。沖縄は今恐らく県外接触者がまき散らすばい菌によってパンデミック状態を引き起こしている。まさかにあの県民の4人に一人が犠牲になった地獄がゾンビの如く墓所から這い出してきたというのか。

 第二の敗戦が、この国の国民にあの惨禍をもう一度味合わせようと、コロナ禍蔓延という大都市空襲によって決定的となった。全てはアベイズムの然らしめた我々自身の「汚れちまった悲しみ」が、自分で自分の骨を拾うという、滑稽極まりない、自虐性に満ちた悲劇へこの国の民を引きずっていく。

 自らまいた種だ、ともいえる。何故あの戦争に学ばなかったのか、学ばないのか、何故そこで自律的更生という道を確実に歩もうとしなかったのか。何故獣化したのか。何故戦勝国の奴隷になってしまったのか。何故敗戦国の身分に永久的に甘んじるような境遇を選ぶのか。

 不正義との戦いをやめたとき、あるいは何気にこれを看過してしまうとき、自らの中にそれらの害毒を意識下で呼び込むのだと、今更ながら思う。我々はここまで、不正義の跳梁という政治ドラマを嫌というほど見せつけられてきた。これほどに悪徳があからさまに横行する場面を我々はかつて見たことも聞いたこともない。あるとすれば後進国の混乱する政情において、遠くから何気に垣間見たくらい。つまりそういうことは、この国ではまず起こらないだろう、というくらいの話だったはずだ。

 (旧)帝国官僚並みに官尊民卑の感性的風情で国策立案に寄与するていの高級官僚が、近代化の失敗という歴史的事件の張本人のはずが、未だにその牙城を固守しているというのは、まさしくあの戦争に学ばないこの国の在り様を根拠づけている。人間(社会人)でさえない天皇という存在を米国GHQ方針のまま憲法上に永らえさせたことは、これも、本来戦犯そのものである者を象徴として祭り上げた奇妙な倒錯した精神を連想させる。

 結論を急ぐまい。ただ己の身はおのれで何とかしなけりゃ済まない。この国が血税を吸い上げた挙句はそれを国民のためには容易に使わない、そういう情けない国体がこの国の実態であり、アベイズムに極まった戦後日本の堕落の底深さを思い知らされている。堕ちるところまで落ちよとは坂口安吾の親心だろうが、ところで民衆は果たしてこの国同様に堕落したのだろうか。(つづく)