沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

詩の終わり 思考停止の官僚的差配と没落への道

 現状米国大統領選挙が、史上最悪の泥沼合戦(敗残兵の無駄な抵抗)になだれ込む様相が見て取れるが、事実上バイデン実質勝利は決定的で、トランプの悪あがき(降板後の自身の社会的転落を恐れて)が延いては米国の、ある種の世界的威信を失墜させるのは目に見えている。このような人物を押し戴いた米国民の民度の低さが目に付く。

 但しバイデンだろうが何だろうが、征服民族アングロサクソンの野蛮な軍産複合経済体制やら世界における警察的支配に何の変更もないことははっきりしているのだが、一方世界理念における米国の凋落はいよいよ目に見えて著しい。

 日本の場合、解散総選挙なしにはアベ・スガイズムの裁断は如何にしても先送りとなるわけだが、post truth現象の先行きは世界的にそう長引く様子は見て取れないようだ。所詮post truthは、21世紀の歴史の狭間にほんの数年現れた単なる一泡沫的現象形態に過ぎず、20世紀初頭以降の所謂「本質的な」悲劇的モブ現象に肉薄するようなことは、現代ヒトラー亜流をもってしても、到底歴史的潮流を変えるような巨魁となることなどできまいと思われる。

 悪の巣窟、狼の砦(ヴォルフスシャンツェ)に極まった20世紀最大の暴力組織、一国挙げての犯罪集団であったヒトラーナチスドイツは、今となっては「ファウスト」中のメフィストフェレス的ゾンビ的暗躍とでもいった奇跡的な悪のシンボルにさえなりたがっているが、トランプに見る傾向的な精神的堕落勢力には、史上何時でも息を吹き返すだけの蝟集力が存在し、それはこの日本における近来のアベ・スガイズムにもはっきり見て取れる。ネトウヨばかりか若年層の政治的軽薄さ、壮年層のまともな社会性の希薄など、これを助長する塊はどこにでも立ち現れては、正常な議論の場を引っ掻き回す児戯に休む暇はない。

 菅がその基本的な政治能力やら国家理念の欠如、挙句は答弁能力にさえいちゃもん付けられてる有様では、そのどうしようもない非論理、非倫理、無知蒙昧、がらくたのようなぼんくらぶりがいよいよ手が付けられないほどにあからさまになり、一国の首相として救いようもない仕儀となり了すことが明白になってきた。ここに見る国柄の腐敗、醜悪化、堕落等、実際有権者たる我々日本人が深刻に憂えるべきものとなってきている。彼らを推薦しているのは我々だ。責任はある意味同等にあると思われる。

 そうした中、この国は官僚主導を政治的に是正しようという旧民主党の蠢きのインパクトがここにきて官邸主導に取って代わり、目指されていた政治主導は内閣人事局による官僚その他の人事権掌握以降、ついには官僚等力学的支配並び私家政治強行の狭隘な権力暴走を助長する羽目に陥った。つまりはこれがアベ・スガイズムの正体であり、当然に万機公論に決すべき政治弊害そのものというべきところだ。今回の日本学術会議会員任命拒否事例は菅が墓穴を掘った、官邸主導暴走の一実例であろう。但し、その所為明らかな確信犯であり、力学的には明白な言論弾圧思想統制、戦前特高政治に酷似している。由々しき事態と言わねばならない。但し国民は多くこの事実を正確に認識していないらしい。

 官僚人事はともかく、官僚差配の国家体制の大元のところは決して実質上政治主導にも官邸主導にもなってはいない。そしてこのことがこの国の没落の最大原因となりうることは既に常識の範疇に入る。卑近なところでは沖縄辺野古事案(地域的優位性も軍事的要諦もほぼ皆無な政治的怠慢が引き続く前代未聞の負の遺産)であり、一体に対米従属、従米主義で思考停止した官僚差配の外務防衛路線が主役となっている(民主政権下鳩山首相がのち暴露している彼ら官僚の詐欺に近い行為は明らかな国家犯罪だ)。既にみた通り米国の失墜ぶり、凋落傾向から推しても落ち目の親分に付き従う子分の末路は、巷間の三流ドラマにも定番の在り様である。

 戦前戦中派が主体的な地位を占めていたころの戦後、返還後の対沖縄施策は、主に沖縄戦で過大で悲惨な経験を経た沖縄県民に対する哀惜哀情同情が漂うような在り様で実質的に決められていたやに聞くが、戦後戦無派がこれに取って変わるにつれその様態は真逆の傾向を明白にしていった。挙句は、沖縄県と言えば、高江辺野古に見る国家的弑逆の修羅場として我々には見えている。普天間嘉手納爆音訴訟には最早司法さえ体制権力側に加担する無様な様相が見て取れる。所謂国が自治体を訴えるという奇妙な倒錯した裁判形態がここでは日常茶飯だ。そこには沖縄戦禍にあった県民の過去を斟酌する国の誠実で真摯な態度は微塵もない。これがこの国の現在の国柄を露わにしているのであり、この一事をもってしても到底現行国家政治の民主的健全さはあり得ないものと考えざるを得ない。(つづく)

 

詩の終わり GoToキャンペーンと沖縄 其の悪しき現状

 2020年10月26日現在の沖縄県の新型コロナ感染状況(沖縄県発表)

入院中198(198)人(重症者21(21)人、中等症者59(59)人)

入院・療養等調整中32(32)人 

宿泊施設療養中99(99)人 

自宅療養中27(27)人 以上療養中患者計356(356)人 死者58(51)人

累計感染者数3194(3052)人

 以上の通り、沖縄県では(赤字)の部分が7月以降(GoToトラベル開始ころ)の数値であり、それ以前、4月30日以降全てゼロ(累計感染者数142人、死者数7人)で推移していたことを示している。しかも明らかにこの第二波と言われる感染爆発があって後、一進一退の増減が突出してここ沖縄では見られるのであって(収束の気配さえなく)、一昨日などは自民系県議団11人がクラスタ感染を生じせしめ、石垣、宮古等離島(県議団の視察先)での感染リスクがいやが上にも高まっていることを証明している(尤も彼ら自民県議団の視察内容や懇親会など見ると到底褒められたものではないhttps://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/653528)。

 観光立県として県財政シェアが大きい観光資源(離島等)が感染症の確実な出来原因となることは、つまりは沖縄県は国のGoToキャンペーンの対象として、明らかにハイリスクな対象そのものだということだ。何が問題か?県民には国策による願わしくない危難が現実の事として確実に起こっている。そこには国が為すべき救済の手立ては一切ない、と言っていい。

 先ず第一に、現行コロナに関する世界的評価はほぼ無診断無回答という有様で、WHOの見解などは、欧米が極めて深刻な感染実態を示しているといった程度の観測しかしてないということ、ワクチンは未だに事実上のエビデンスを得られず、治療薬が少しばかり治験を示すくらいのレベルだ。つまり感染予防薬は今のところ全くないということ。当然日本もまたこの世界傾向に逆行するような、明らかな、特別の実績(著しい減少傾向や収束期待値)を示しているわけではない。見たところ、日本の所謂専門家会議(分科会)の議事非開示な在り様から、明確な見通しやら収束期待、あるいは確実な防疫的見解が確立されてない、ということがわかる。

 どういうことか。国が今やっているGoToキャンペーンは、戦時中の「打ちてし止まん」特攻精神、あるいは国民総玉砕覚悟の経済展開推進(戦争?)という仕儀であり、大本営発表並みのガセデマ扇動言辞はともかく空気感がそうなっているし、大方は日本国政府の危機管理能力が如何に空洞化した実態を晒しているか国民はあきれ顔で眺めているということだ。少なくとも我々の眼には、この国はコロナ禍対策に関し全く真摯に真剣に取り組んでいる様子には見えてないどころか、国の経済はむしろ国民の故知らぬ犠牲の上に成り立つとでも言いたげだ(野党合同ヒヤリングなどで曝け出されている政府忖度答弁の官僚たちの、即応臨機における無為無策ぶりは目を覆うばかりだ、この国に公僕はいない)。

 よくよく考えてみればここにも、この国の沖縄に対する極めて非情な国策的差別があらわになっている。それはかつて沖縄戦でこの地を4人に一人が戦禍に叩き込まれる国家犯罪的な仕方で対したそれを連想させるということだ。このことは結局は、確率的に、相変わらずこの地を国内最適の国策上の「捨て石」と見做していると、思わないわけにはいかない。さらに言えば辺野古の事も今更ながら、到底独立し自立した国のやることではなく、「被占領国」の体を為してどこまでもバビロン捕囚の身分から抜け出せない。奴隷国家日本万歳!!くたばってしまえ。(つづく)

詩の終わり 憂国

 post truthにおける非論理、非倫理、反知性、非理念と言えば、突き詰めればただのやくざ、チンピラ、ごろつき、ギャングの類にしかならない。今この国は、国政はじめ政治的権力をそういう類の勢力に何気に寄託しているし、其処から初めて警察、司法、行政、剰えメデア・マスコミ・ジャーナリズムまでもがこれになびいている。言ってしまえば、今回の日本学術会議新会員任命において、菅内閣が行った違法な人事権の説明のつかない行使(排除理由が開陳されない限り昔年の思想弾圧に匹敵する国家的行為)もまた、一連のposttruth的「(良識?警察?)あってなきがごとき」政治環境から説明がつく。これが現今自公政権の根底的な性格を明示している。

 我々は、主に第二次大戦または15年戦争にまつわるあの時代に歴史的着眼点を置き、「戦前価値復活」「皇国史観再生」「歴史修正主義」という、そういう明らかな傾向にある「日本会議」直系の自公系保守政治勢力のすること、為すこと、口にすることに、明治維新以来の近代日本がして来た、多くの負の事跡のデジャブをいやが上にも見出して、体験も経験も絶無か希薄な戦無世代ながら、我々自身の歴史的追体験や想像力の連続的発展的な全面的展開により、これらへの警世的警告的反攻を企図しない訳には行かなくなってきている、という立場に置かれていることになる。我々、というのは民俗学にいう「常民」であり、知的な意味では「常識」人のことだ。

 勿論、例えば北一輝大川周明など所謂国家主義超国家主義)の泰斗と目される思想家並みの、純粋に指導的な理論なるものを今この国で見つけることは容易ではない(というよりそもそも右翼に理論などないわけで)ので、無思想、無知、という誹り以外現今似非国家主義者に向けて発するものはない。ついでに言えば昭和45年の三島事件で、この国のそういう思想方面はその後完全に亜流化するしかなかったと思われる。

 アベイズムという、空気感染のようなパンデミックが発生し、この国の8年間を汚染の非アンダーコントロール下においた安倍晋三が、本物のパンデミックである殺人的新型感染症の猛威(コロナ禍)によって、その危機管理能力欠如をその周辺ともども暴露せしめ、かくして無様にその政治的野望を、以前と同様再び潰えた格好で空しく消えたわけだが、恐らくはその下支えとでも形容すべき立ち位置で、本来的な野望なき(目指すべき国家像や目標を元々持たない宰相)ままにポピュリズム的に場当たりな諸策をさも深慮遠謀から導いたとでもいうように、そのサメのような死せる顔貌にうつろな眼を蠢かして、安倍同様事あるごとに国民の耳目を塞いで好き勝手し放題の権力の亡者になるというのが見えている、菅の末路への道だ。

 「憂国」は古い治国平天下の国士的情熱であろうか。それはしかし国というものに対するある心情なしにはあり得ない話だ。ある心情とは一種の「愛国心」だと言えるが、しかし、抑々「国」とは何かということに関して一定の定義がなければ成り立たないはずの極めて曖昧な心情だと言えよう。「日本」という国名が世上に浮かび上がるとき(ノーベル賞、あるいは国際競技などでのこと)、我々が故知らず感じる拍手喝采などのそれはしかし、この愛国心とは別物だと思われる。自然発生的なものでなく、やはり「国」というものに対する個別の明確な意識なしには説明がつかないのだ。すると、この「国」という実体のない名称(勿論国体などというものではない)に我々が見るのは、我々の中に醸成された後発的観念というものだと言わざるを得ない。当然ながらこの「国」に対して我々が要求するのは、観念であるがゆえに言える「理想」というものであり、「理想」から外れていく「国」に対する「憂国」が一般心情だ。「愛国」を胡散臭いものだと思うのも、自称「愛国者」どもがいう「国」が、多面的に考えられた「国の在り方」に添ってないからだ(保守主義の論理的矛盾)。若干乱暴な言挙げになろうが、野党合同ヒアリングなど聞いていると、公僕たる官僚たちに決定的に欠けている「国民向け」の視点であり、取分け安倍内閣以降目に余る逆賊的言動の数々が、我々一般国民の「国」に抱く一種の「理想像」から苦々しくも乖離していると思うことだ。そしてこれを強制的に助長しているのがアベスガイズムにほかならない。

 いずれにしろ、戦後日本のあげて重大な危機を意味するこのコロナ禍の中、リアリテイのない(現に実を上げることがない)、従って当然に目指すべき国柄が見えない、更には「理想」をどぶに捨てて顧みないこの現行政権を支持する日本国民の自ら自分の首を絞める行為は、到底座視すべからざる様相を呈してきている。しかしながら戦後75年は永すぎた冬であった。凍えきった国民に雪解けはあるのだろうか。(つづく)

詩の終わり 菅義偉という政治家の泥沼政治

 菅内閣が発足直後早速に問題化させた「日本学術会議会員任命」拒否行為は、大方次のような政治傾向を露呈したということになる。

 先ず、中曽根内閣で先鞭をつけたこの、首相による任命行為に関する考え方(法解釈?)に対し、菅内閣は明確にこれを否定したと取られているし、実際事実は何を抗弁しようがその通りであろう。しかしこの法解釈(考え方、基本方針、法の精神)否定は決して有効な説明内容を披歴せずに単に「私はある者(政権に批判的な知識人等)の任命を拒否する」と私的に(党派的に)表明したというに過ぎない。つまり、正確には、何ら公的な有効性を持たない首相の(ツイート的)独言を、軽はずみに明るみに出してしまった菅個人の無様な失態にほかならず、言わば彼自身の公人としての自覚のなさ(いつまでも官房長官のつもりらしい)を内外にひけらかしてしまったのだ。

 しかし問題は勿論そこに留まらず、一国の最高権力者が事もあろうに(前任者が結局グレイゾーンのまま逃亡を図った)明らかな私家政治を強行し、私的な権力保持手段を行使して、印象の拭えない低劣さを恥も外聞もなく曝け出したということだ。そこにあるのは前任者同様反知性、非論理、更に非倫理な性格に満ちたpost truth政治性だ。つまりは時代が生んだモブというべきチンピラやくざ風情の集合として、この新内閣を見据える必要がある(あくまで純粋に民主主義というものを前提するなら)。繰り返せば今回のこの問題は法(習慣法)解釈などというレベルの明らかな事実関係にはなく(従って法律問題ではなく)、極めて低レベルな私家政治の暴走、前内閣同様の失政既定路線にほかならない。

 この国の民はかく各論的に権力が為す失態など意に介さない。「他に適当な者がいないから」と言っておのれの首を自ら締める浅はかで愚かしい代議員選択に変更はない。実はこの事実の方が由々しき問題を孕んでいることは言うを待たない。疑似挙国一致内閣(国家統制を強権的に実行する内閣)の引き続くこの国では、一億総与党、大日本報告会そのままに大政翼賛会が出来上がりつつあり、メデア・マスコミ・ジャーナリズム挙って政権になびき、自由論陣から転落して恥知らずな忖度を繰り返す夜盗集団(公に申し開きのできない半犯罪集団)の国に成り下がった。官僚は「野党ヒアリング」で、その選良頭脳を鈍化し摩滅した口舌を臆面もなくダダ洩れさせ、国民が見ている前で明白な「官尊民卑」正体を曝け出す。彼らの口から出る言葉からは決して「公僕」の真摯な姿は見えてこないし、国民にあっては彼らの抱える世にも醜い組織的同性愛実態などは思いもよらないことであろう。

 所詮コップの中の嵐、愚にもつかぬ醜態でしかない。その喧騒は国が何かその陰で後戻りならぬ仕掛けを企てていると考えて置くべきところだ。(つづく)

詩の終わり スガイズムの行方と沖縄琉球

 時代錯誤の疑似挙国一致内閣(但し手口は詐欺に等しい)というべきであろう。朝日新聞の9月の世論調査では菅内閣の支持率、実にあらゆる世代で7割近い数字を叩き出している。勿論男女を問わない。これはこの国の民が総論的に自公政権をこの国のかじ取りとして過半以上承認したということになろう(菅首相自身への実質的な支持ではない)。つまり、今後各論的に無数の問題が恐らく奔出するとしても、前内閣同様に「他に適当な者がいない」という理由で、変わらず高支持率を献上する状況が続く。この国の民の性向は少しも変異しない。飼い馴らされた状態が続く。

 安倍晋三側用人政治で(自律性を損ない)墓穴を掘り、難病再発を隠れ蓑に、コロナ禍の責任所在も不明のままうすぼんやりと表舞台から消えたのだが、安倍に特徴的な私家政治のグレイゾーン(もりかけさくら)を横目に見ながら、同時に菅独特の(前内閣批判に対する)「責任回避」的手練手管で、当代のメデアマスコミが不作為に(無責任に)音響高く奏でた、「たたき上げ」の純血種イメージ(勿論実質嘘である)で身を固めつつ、首相となったら「行政府の長」(司法でも立法でも彼は長でない)たる大権!を何気にふりかざして(司法も立法も踏み倒して)、前内閣で存念なく発揮していた「陰の実力者」然と、表舞台でもそこ気味が悪いほど陰険で陰湿な政治的画策に辣腕を振るうのであろう(彼の学術会議に関する法解釈には詐欺師の発想しかない、まさに法の精神を閑却して抜け道だけを追求する現政権の体質そのものだ)。

 このように、この自公政権によってこの国がどこまで回復不能の国柄に落ちぶれるかは最早わからないというしかない。ただ、必然にアナクロニズム(戦前回帰、神の国論)に覆われている自公政権下の政治がまともに諸方面で実体のある成果を上げるものとは思えない以上、野党は結束して彼らの失政予定施策につき糾弾、弾劾、抗議行動を繰り返すことだ。これは辺野古闘争の本土版であり、未来にわたって改変しがたい永久敗戦実質を少しでも突き崩し、「人間」の住む時空を確保するための劇的な精神の闘いといえる。

 辺野古闘争は(異国の軍隊のための)半永久的軍事施設を郷土の陸海空に決して出現させてはならないという、反戦、非戦、厭戦に覆われた沖縄県民の強い意思によって絶え間なく続けられている。それは他の都道府県でここまで行われてきた国策への反攻とは明らかに一線を画す。県はこれまで一度として、日米の政府が戦中戦後強行してきた基地建設を自ら望んだことはない。全ては彼らの強制と民意蹂躙によって行われてきた。この菅などはどうやらあけすけに、振興策と基地問題をリンクさせることにためらいを見せない(論理的でない理由で政策実現を図るのは詐欺師のやり口で、到底品位ある未来を期待できないのは当たり前だ)。しかも振興策といって、当初の、戦後国内インフラ整備が進められる過程で遅れて県がこれに加えられたにすぎず、他の自治体に比しても格段に莫大な予算を得ているわけでもない。「沖縄返還なしには戦後はない」という佐藤栄作の掛け声で1972年所謂「祖国復帰」は成ったが、基地は存続、核密約地位協定、と、本土政府が実現させたのは敗戦国の従米主義に沖縄を軍事的に利用しただけの、ここだけ「日本国憲法」が通用しないアンタッチャブルゾーンを設えた話に他ならなかった。

 繰り返せば、沖縄の経済は基地経済で持っているわけでもなく、そのシェアは5%程度に過ぎず、剰え、返還成った基地跡地の利用状況は膨大な経済効果を実証している。つまり、本島中枢部分(本島の2割弱)を占拠している米軍基地がなくなれば、沖縄の財政は本土依拠のそれに代わり完全に独立的に賄えるものと証明されたわけだ。

 「辺野古唯一」を馬鹿の一つ覚えに吠えているこの国の政官業学一切は、おのれらの思考停止状態を詐欺的に糊塗するためにのみこれを言い続けているわけで、彼らの中には沖縄問題に関する論理的説明が可能な者など一人としていない。

 スガイズムは、いずれにしろ理論のない国家主義超国家主義)であり、憲法精神を180度ひっくり返し、主権を国民から奪い去って、より鮮明な奴隷状態を現出させるものだ。但し、こういう彼らの奇妙な政治的野心は必ずナチズムに似て、合法性を強調しながら、従って国民の目をくらましながら、「粛々と」執り行われ実現されるものと覚悟しなければなるまい。(つづく)

詩の終わり 「日本国対沖縄」概論の3

 沖縄県9月25日発表コロナの現状

 入院中108人(重症者16人、中等症者36人いずれも国基準算定値)、入院・療養等調整中5人、宿泊施設療養中14人、自宅療養中8人、死亡者45人、累積感染者数2389人。

 7月以降のデータではいずれも上記緑色の数字についてはそのまま同じ、死亡者数は38人、累積感染者数は2247人。

 明らかに、コロナ禍は7月以降の感染拡大を如実に示している。

 大うつけ安倍晋三政権は、官邸(政治)主導(内閣人事局による官僚支配)とはいいながら、結局は取り巻きの元官僚たちの言うがままに操られた愚策と悪策の繰り返しに終わり、コロナ禍で馬脚を現した側用人たちの、愚かとしか言えない失政手管で、この国の官僚が抱える大日本帝国時代直伝の官尊民卑体質のまま国民民意からの乖離という、昔ながらの轍を踏んで瓦解した。このことは、結局次のような意味合いになるだろう。

 民主政権でさえ例えば鳩山失脚の大元である普天間問題一つとっても官僚差配に振り回され(外務防衛官僚の嘘とデマに総理大臣までもが騙されたという話)、マニフェストだった政治主導の国政運営に道筋を付けられなかったわけで、普天間問題の本質である、日米安保体制が抱える「国策と民意の乖離」問題(地位協定問題等)を、一歩も半歩も解決方向へ進めることができずに終わった。ここに見られるのは、遠く明治改革以来の官僚支配の実態が、この国の戦後における、正常で国民主体の政治へ、当然に移行すべき健全化を阻んでいるということだ。この事実は恐らくこの国の政治的絶望の本質を形成しているのであり、国民はじめ政治家の「シジフォス神話」、終わりのない劫罰的運命にある我々の、不可逆な時代環境を底打ちしている。

 しかしながら、官僚とは何か?と問うとき、その情報収集能力、あるいは情報分析と総合力の卓越性、世界情勢読解力の優秀さなど、この国の知の方面の群を抜いた力に関しては異論をさしはさむ必要もない。従って、政治の役割はかかる官僚の知を如何に正しく使いこなすかという一点に掛かっていることは間違いない。それは(権力上の)力学的観点からだけ考慮されるべき話ではなく(支配・被支配の関係ではなく)、立法府である国会という場においてフルに活用されるべき能力という観点で考えるべきことだ。

 菅氏は、安倍政権時の側用人政治を踏襲すべく取り巻き官僚を持たない政治家だと目される。但し、これまで彼が見せてきた官僚差配の辣腕ぶりが示す通り、取り分け安倍政権下では明確に官僚支配の政治家であり続け、安倍晋三以上の私家政治を(官僚意見によって自説を曲げずに)強力に推し進めるタイプと見做される。しかし彼はどうやら、ネット人種並みに、答えをどちらかといえば「知恵袋」や羅列される解答群の中に探す、定見のない三流政治家(稟議を尽くした結果としての最善の答えを追い求めない)と、大向こうからは見えてくる。

 いずれにしろ戦後政治環境にあって我々が見るところ、自民改憲草案にある通り、現行自公政権下では「自由」は「国家統制(制御)」され、「民主主義」は「国家主義」に取って代わろうとしているわけで、様々な政権施策の方向性は明らかに戦前価値観へ180度転換しつつあり、又失われた8年で極めて変更困難な国柄をぶち上げてしまった(戦争国家、警察国家)。安倍晋三が示した私家政治の片鱗は「独裁」に究極する全体主義にほかならず、その失政の本質は結局果たしえない政治責任マニフェストや公約の実現)という重い枷に何らの意地も見せることなく、空しく埒外に自ら転落する運命を辿った。そこには、この国の大部分の政治家が如何にしても到達できない、近代日本の抱える重い課題が見えている。

 沖縄に関しては、河野などの不勉強な沖縄半可通担当大臣がまた如何にもそれらしく「辺野古唯一」をくりかえし、到底琉球救済に先鞭をつけ得ないことは初めから分かりきった事ではあるが、河野に限ったことでもなく、沖縄のことはやはり独立へのスプリングボードこそ必要不可欠のものであり、それを他にいじましく求めても詮方ない事だ。(つづく)

詩の終わり 「日本国対沖縄」概論の2

 国基準で重症者26(20)人、中等症者63(68)人、入院療養等調整中16(16)人、宿泊施設療養中15(18)人、自宅療養中18(18)人、療養中患者237(240)人、死亡者41(41)人、累積感染者数2259(2244)人となっている(2020年9月10日沖縄県発表)。()内緑数字は2020年9月9日のもの。https://www.pref.okinawa.lg.jp/site/hoken/chiikihoken/kekkaku/press/20200214_covid19_pr1.html

 第一波収束(新規感染者数0)の始まりは5月初めで、それが7月初めまで持続した。つまり7月以降、上記記録(現在)に至るまで、顕著な増加を見ることとなる。このうち、重症者、中等症者以下療養中患者まで、全ての数値において、7月以降計上された数がそのまま示されている(7月になるまでは現れてなかった数字だ)。累積患者数は2117(2259)人、死亡者34(41)人で、7月以降の数値的な拡大は明白だ。因みに第二波の端緒は県民の海外渡航者や県外からの帰還者だった。そしてGoToトラベルが始まった7月下旬以降、棒グラフの山は急こう配の形状を見せる。如何に政府が黙過しようが沖縄では明確に政策の由々しきミステークが、あり得ない被害状況を作り出したといえる。それは県の観光立県としての立ち位置の難しさを考慮したとしても、県外からの渡航者に制限を掛けえなかったとしても、到底看過できない国の、本質的な意味の安全保障姿勢の欠陥として追究されねばならない事実である。

 こういう場合に立ち至っても菅官房長官は県に対して療養者宿泊施設の確保について図々しくも(おのれらの愚策ぶりを棚に上げて)あり得ない苦言を呈した(彼の自助共助公助スローガンが意味するところ、旧帝国官僚並みに官尊民卑が露骨に示されている)。

 県在住、移住者の筆者に感得されるのは、「日本国対沖縄」という対立図式通りの、権力者の居丈高で不遜な「沖縄いじめ」、その心底に間違いなくある「民族的差別」、であり、延いては国際社会において司法通念上恥ずべき「内国植民地主義(同一国内の一地方自治体に対する自治権破壊行為)」、という印象以外ではなかった。

 この全世界的なコロナ禍にあってさえ「対沖縄」の内容は分科会(沖縄は下火に向かっているという発言)もそうだが到底同一民族、同一国内自治体に対する国家政府の在り様とは思えない。勿論移住者の感じ方を言っているだけで、県民が等しくそう思っているかどうかはわからない。

 安倍晋三の、鼻の先で小ばかにするような脂下がった顔相に比べ、菅義偉ヒトラー内閣のゲッペルスを彷彿とさせる残酷で冷血なものがあるが、国民はその正体、実態について殆ど「奴隷的に」しか知ろうとしない。「奴隷的に」というのは、日本人には馴染みのない表現なのだが、魯迅の「賢人と馬鹿と奴隷」にある「奴隷」のことだ。

 解釈は如何様にも取れようが、国民にはこの三様の様態があり、魯迅が等しくこれらを批判的に扱っていることは見て取れる。つまりいずれの場合も表面的な皮肉以外に在り方に関して本質的に洞察する必要性を示唆している。少なくとも国民は全てこれらの要素でできていて、逃れようもなくそのようにしか在りえず、生きえない。このことが前提だ。

 先ず、全ての国民は「奴隷」であり、何者かに付き従ってその者の言う通りにしか存在せず生きていない。但し彼はこの自分の在り様に何時も不満を抱えている。しかし何故不満なのか、何に対してそうなのかわからないし、何となくわかってても何時も不満を解消することの不可能性にだけ目を向け、ため息して終わるのが常だ。彼はそうして何時ものように奴隷として生活し生存を続ける。時として不満を爆発させるが当然にその場限りだ。この奴隷の在り様の中に「賢人」と「馬鹿」も、いることはいる。(下線部がそうだ)

 魯迅は自国中国の民の閉塞状況に鑑み、啓発の意味でそういう言い方をしている。カフカは「文学は覚醒を促す」と言ったというが、酔いどれる民の目を覚まさせ、より良い生存生活を引き寄せる行動こそ求めたのだった。

 運転教習では人間の運転行為の内容を「認知」「判断」「行動」という分け方で説明している。正しい「認知」つまり覚醒するということからすべては始まり、正しい「判断」を下すことで「行動」の保証が為される。しかしあくまで「行動」することが前提であり、「行動」の一歩手前で終わるのが「賢人」だ。正しい「認知」「判断」をして「行動」するとき、真の救いはある。一方「奴隷」は、奴隷である限り正しいそれらを「行動」として表すことが決してできない。何故なら対象を正しく認知しないし、服従することが習い性となって盲目に生き続けるだけだからだ。

 それでは「馬鹿」とは何だ?これが最も難しい。彼は「奴隷」の不満や現状がすぐさま手に取るようにわかり、「こうすればいいじゃないか」と言って壁をぶち壊すことができる。ドン・キホーテがそうだ。しかし彼は風車という敵に果敢に向かっていくが残念ながら風車は風車でしかない。彼に欠けているのが「正しい認知」であり、彼もまた彼自身奴隷なのだ。正しい認知に至るには?

 先ず驚くのは、安倍辞任の報が流れた途端、この内閣の支持率が低迷から一挙に跳ね上がって、元の木阿弥に戻ったことだった。しかし飽くまで人が奴隷以外ではありえない以上この現象は実に馬鹿正直に国民の実態を示唆しているといえる。よくよく実相を眺めると、この国の民はどうやら魯迅の時代の中国人と変わりがない「前近代」の民なのだ。

 封建時代が「前近代」だから、今国民は封建時代の民といえる。あの時代、百姓は生かさず殺さず、商人は卑しい身分、支配階級である武士のみが人間だった、陽尊陰卑で皇室や公家を埒外に置き、.....

 差別、ヘイト、誹謗中傷、ネトウヨ的画策で抑え込み「自助」(自己責任)を強いて政治的責任に頬カムリし、捏造、修正、捻じ曲げで国民の目をくらまし、アンダーコントロールという嘘を平然とかまして世界を欺き、自己利益と仲間優遇で悪の砦をぶちあげ、「ナチスの手法」に倣ってゲシュタポ親衛隊が暗躍する警察国家、司法も立法もなぎ倒して「行政の長」が君臨するそういう国家、これはまさに前近代そのものだ。

 確かに旧支配階級が、上から行った改革としての明治維新以降、国民はその権利の「奴隷的身分」という幼弱な地盤の元、ついにどこまでいっても主体性を確立できてなかった。現人神に仕え、大君の辺にこそ死に場所を求め、滅私奉公、挙句は国の敗残という瓦解、そして連合国支配の継続、今もって他国の軍隊に好き放題勝手し放題の治外法権に甘んじている。日本人は、いつになったらこうした境涯に楔をぶち込もうとするのか、自分を奴隷と見做して憤激するのか、...........

 沖縄は、今後ともこの国の中でどうしても異種の異族的な扱いを受けること間違いない。沖縄はここまで明らかに「奴隷」であることを強いられている。「救い」を求めるなら、これが沖縄の人が判断と行動のために認知する前提となる。(続く)