沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

詩の終わり コロナ禍を死地と捉えてこれを超える 2

 現行自公維系政治権力集団が醸し出している政治上の問題(コロナ禍に適宜対応できてない機能不全状態、乃至安全保障思潮の決定的不備、モリカケサクラ等安倍案件と菅関係に顕現した人格的道義的退廃及び法的無責任実態)の中で考えてみると、我々はここ数年のアベ・スガイズム、あるいは世界的現象であるpost truthも含めトランプ旋風などに対して、それらの劣悪な形質(論理性、倫理性、理念性における明らかな劣化)に対して過分で不相応な(それらに対し必然必要のない)関心と、過剰ともいえる批判や非難を継続して繰り返してきたように思われる(勿論その過剰は安倍・菅体制自体の過剰な悪辣さ狡猾さに由来する)。

 当然に他の重要案件に対する実質的な言及、追究不足を懸念する声も聞こえてくる。しかし「万機公論に決すべし」という議会民主主義の原則からすれば、何事も軽重問わず稟議を尽くすのが本来的な在り方だ。

 さて、それらの形質は、今や世界や日本国民共通に近い内容でわかられてきているかもしれない(安倍の敵前逃亡、菅政権支持率激減やトランプの失墜、海外メデアのまっとうな政権批判などはそういう印象を与える)。但し分析・総合に係って確たるアベ・スガイズム等否定の決定版をぶち上げたのかと言えば、やはり依然何となく心許ない在り様でしか示されてない(コロナ禍で益々見えにくくなり始めている?)。

 こういう感覚は、アベ・スガイズム等の有する常識を超えた自己保存習性(我執)、執念深い権勢維持本能(政治エゴ)に我々が辟易させられているという苦々しい思いが関わっている。一方では、これに加担するかのように、有権者の政治意識や時流感応力が低下しつつあるようだ(しかしこれもこの国の国民性と関係している)。

 我々はモリカケサクラ事件といった安倍晋三案件やこれへの菅義偉の関係性を、残念ながら勧善懲悪や決定的断罪という範疇では扱えない、何か奇天烈な時代背景の中に埋もれるようなものとしてしか処理できないように予感してしまう。だから、時の権力に取り込まれて国家運営上分立できてない(分立を阻害されている)司法権の驚くべき脆弱さに絶望的な現状を悲嘆するという結果に終わるのだ(安倍晋三一人立件できない司法は、最早この国の終焉すら印象させる)。

 尤も我々は、20世紀初頭から数十年にわたり世界に吹き荒れたファシズムやナチズムに対するハンナ・アレント的解釈を何となく踏襲して、それらをいかにもありふれた劣性の表象(モブ化)として身近に引き寄せ捉えるべきだと安易に考えていた節がある。つまり我々はアベ・スガイズム等を20世紀的劣悪現象の敷衍という線上で何となくあいまいに転がしていたに過ぎないということ(いずれは遠からず滅亡し消え去るだろうと)。だが安倍・菅は果たして目に見えてステレオタイプな悪の権化であろうか、多分そうではない。彼らはその権力に対する執念深さで悪存在と言えるが、しばしば暴露される劣性的な正体において「小物」であり、「小悪党」であり、歴史に良くも悪くも深く刻まれる何者かであることはないと。

 (世界の放縦ともいえるネット的環境の中では情報の錯綜と同時に我々の脳髄の中も意外にケアレスミス的な混とんを囲い込んでいるかもしれない)。

 さて、1981年以来日本人の死亡原因のトップは癌である(約3割)。また3人に2人は生涯のうち何らかの癌に罹患するとも言われる。だが癌の発生メカニズムは依然杳としてつかめてないのが現状だ。これに上乗せするように、今、変異性感染症コロナウイルスが俄かに世界を震撼させて止まない。そしてその防御方策を世界中が躍起になって探しているが一向に画期的なものを示しえてないし、ワクチンとはいえ予防でなく、せいぜいが症状緩和、重症化抑制しかできないものだといわれる。ある意味、コロナはひと頃の癌に対するのと同様な運命を歩き始めている。つまりこれに罹患した瞬間、恐怖と絶望の淵に落とされる等、禁忌的扱いにまで落ちるという非現代的なミステリー化けしている。

 日本国民にとってかかる死病とつきあうに現行自公政権のような政治媒体を選択したのは大いなる不幸であったし、現に奈落に落ちる思いを味合わされているのは間違いない。まして嘘と隠蔽、ごまかし、政権維持能力以外の脳を持たない安倍・菅体制の恐るべき長期存続を許したのは返す返すも残念なことだった。

 トランプ出現に見る戦後世界体制の中の米国のイデア的凋落は見るから悲惨なものがあり、パクスアメリカーナの没落は時を置かず現実のものになりつつある。恐らくはこの落ち気味の強国に追随し手を結び、併存以外の道を模索しない日本国もまた、近い将来に無残な結果を用意していることは疑いない。

 例えば沖縄における日本国の誤った施策の数々が何らかの代償を払わされるだろうと危惧されるのだが、それは専ら、この国の戦後体制の思考停止した在り様からの当然の帰結であって、今更後悔しても始まらないし、辺野古などは恐らく前代未聞の国策誤謬として「国恥」の代表になり了すであろう。現在辺野古大浦湾の埋め立てに伴う環境破壊は、此処を含む奄美琉球島嶼一帯が自然遺産登録を目指すという真逆の企てに対して、正当な何らの理念的解答も持たぬまま、人間的愚かしさという既定路線を突き進んで止まない。これも近代日本がむしろ運命的に背負った国家的民族的な宿痾のなせる業であり、今アベスガイズムの場当たりな従米主義ばかりが突出しているように見えるだけで、実際は歴史的に不可逆なこの国の民族的性向そのものが因となっているのだ。

 いずれにしろ今喫緊の重大な支障はコロナ禍にほかならず、ここを死地と捉えて死活問題とし、生きるか死ぬか、生き延びるのか、成り行きに任せるのか、最終的には個人の問題に究極する。当然我々の人生の最終局面として如何に生き、死を迎えるかということにすべては収斂する。

 パスカルは神の存在の有無は我々自身の賭けの問題だとした。「全体と虚無の中間存在」で、永遠に浮遊し震撼する脆弱で儚い葦のような我々は、さながら葦のようにうそうそと「考える」だけのものでしかなく、しかも考えることにおいてのみ霊長類たる人間である存在性が見える。デカルトも同じことを述べる。ここに立つなら、この神の前の小さき者は「知られざる者」「知りえないもの」として我々の生と死を見つめることになろう。

 我々が超えるのは、生きるためにほかならず、此処に留まることが意味のないことだからであり、我々の思考、行動、認識が生きる運動の中にしか意味としてあり得ないからであり、「不安と臆病」に苛まれて出発できない愚を拒否するが故だ。生はかくして死を超え、運動体として永遠に神の場と時において人間であり続ける。 

詩の終わり コロナ禍を死地と捉えてこれを超える 1

 このかつてない規模の、第三波襲来中のコロナ禍は、国(菅政権)の不適切で時宜を得ない対応の、無理筋な継続(失政を認めない、分科会の提言を無視する、自治体任せ、無責任発言)である天下の悪策愚策?GoToキャンペーン(や持続化給付金等休業補償などの制度設計不備)などにより、感染症対策も経済もいよいよ収拾の付かない大パンデミック事件(一種の戦争状態)となり、国民を戦後かつて経験したことのない奈落の底へ引きずって行くのが目に見えてハッキリしてきたと言えるだろう。軽く言えば、第三波も程なく乗り切れるだろうというのが国家政府の基本姿勢だ。

 この事実を日本国民は若年層から高齢者まで等しく共有して、待ったなしの自己保存、自律的手立てを早急に実行すべき時機に来ている(それは勿論今までやってきた自粛やステイホームばかりでなく、コロナの被害がよもや自身に及ばぬような徹底した手立てを講じるという意味だ)。自治体は既に国を見限り自律的独自対応へ向け始動した、というよりしないわけにいかなくなった。医療体制の逼迫は深刻度を増し、医療崩壊というべき事態が刻々と迫ってきている。

 現行国家政府はあってないようなものに成り下がった。むしろ存在悪でさえある(未だに5割近い支持率を献上している若年層の無知な対政権現状支持など問題外だ)。今やこの無能政権に牙をむいていつも通り安倍以来の政治批判をしている気さえ起こらない(あいつらはいずれ闇の彼方にいつの間にか消え失せているだろう)。

 政治機能不全実態は確実に、その災禍の現場たる医療従事者、医療関係者に特化して現れているし、GoToで菌がまき散らされる市中感染空間に、無下に放置されている国民生活のストレスもいや増している。また、無症状軽症者が多数を占める少年青年壮年層の、放縦と言っていい無作為の活動を抑制できずに、結果として、彼らが立ち戻る場所にいる高齢者弱者の感染、重症化、死亡者数を増幅拡大化しているという実態がある。(これには、国が国民向けに危機的状況の警鐘的メッセージを発しないという、国家機能不全状態が根底に要因としてある。こういう事態を招いた自公政権や安倍、菅内閣の責任はあらゆる意味で重い。言ってみれば後々戦犯として扱われる成り行きとさえ言えるのだろう)。

 (検察立件対象にあふれた、利権既得権エゴイズム塗れの)現行菅内閣が動く契機は当然に己らの権力保全や利得に関わること以外ないことなど最早自明の事とわかられている。GoToどころの話ではない。そんなものにかまけているのは一部の富裕層、暇人、高給取りばかりで、一般国民は最初からステイホーム、不要不急の外出自粛をしているわけで、それの経済効果は明らかに偏頗でたかが知れているばかりか、理屈から言えばやらないほうがずっとましという結果になっているわけだ。

 両是論的な二兎追い政策はいずれにしろ愚劣だ。そこに巧まれた政治的技術など全く見当たらない。しかも両是論さえ成り立たない(経済優先施策、感染症対策の希薄)。分科会提言の軽視は結局国民の命の軽視、結果するところ明らかな戦犯事案と言える。現自公政権の在り様は戦前の参謀本部のそれと相似ている。但し、当時翼賛する世情から現状の正しい認識は阻害され、今は逆に著しい情報氾濫とともに様々な見方を生み、翼賛自体を不可能にしているし結果国民はみな、ばらばらの状態で何となく自助努力だけが有効な生き方となりつつある。しかしそれは菅の言う自助とは全く意味が違う。

 つまり現在、日本人は孤独な一個人としての、精神的自律的試練を自ら自身に課す以外、生き延びる道筋が見つからないという土壇場に置かれているということ。極端に言えば「死地」に追いやられているわけだ。そこで「活路」を見出すには「死の恐怖」の超克以外ない。

詩の終わり 戦前政治の復刻版で国民は死地へ追いやられる

 沖縄はいつの間にか、この北部の地域にも100人を超えるコロナ感染者が見られ、現在20人の療養者を数えるようになった。今玉城デニー知事は病気療養中だが、観光立県の沖縄がGoTo除外となることを望まぬ旨既に公言している。確かに県外来県者に起因するコロナはごく少数で、むしろ県内での多人数飲食等会食や家庭内感染、職場クラスタの方が際立ち、一方で感染経路不明の市中感染リスクが高まっている。当然県民は自粛的に不急不要の外出は極力避け、集団的な県内移動も多くは認められない、しかしながら。

沖縄県におけるコロナウイルス感染症陽性者の状況(2020年11月30日現在沖縄県発表)

療養中患者数403人

累積感染者数4326人

入院中219人(重症者22人、中等症65人)

  入院療養等調整中40人、宿泊施設療養中69人、

  自宅療養中75人、死亡退院69人

 何度も言うが実質こういう数値は、いずれも7月以降あるいはGoTo開始以降、爆発的に増加していることを如実に示している。

 その他本土都道府県の惨状は目を覆うばかりであることは国民皆等しく知っている事実だ。

 にもかかわらず政府はおのれらの失政を糊塗するために、そのGoToとの関連性を過少に評価しようとしているが、国民のだれもそんなことは信じない。

 同時に、明らかにこの国の政府は「何もしない」で、国民の自助努力(あるいは共助)だけを言いつのり、彼ら(公助)の発する公的な発言発表が、国民の生活生存に関わる行動に対して必ずどっちつかずの曖昧なメッセージを繰り返し出していることなど、事実上等閑に付している。

 はっきり言ってGoToは、二足の草鞋とか両是論、二兎を追うなどの譬えで、政治の機能性を素人並みのレベルで扱っているとしか言えないものがある。そこに、目に見えて行き届いた政治技術(行政手腕)などまるで見当たらず、最後は都合のいい数値を並べて「神のみぞ知る(西村担当)」あたりの学級委員会決済で済ましている。

 アベイズム・スガイズムの性格は、どう見てもその程度のレベルで事を収斂するように図らっている、という政治姿勢にしか見えてこない。

 安倍晋三の嘘つき政治は史上まれにみる犯罪事案として歴史的に糾弾されるべきであり、菅義偉日本学術会議に対する「知」の否定という、(高レベルな専門性を度外視した)分を知らない弾圧行為は、やはり歴史的に裁かれるべきものなのだが、現行自公政権による亡国的愚昧政治、低レベルで国民不在の利権・既得権政治は、即刻退場を迫るべき重大案件だ。国民にとってそれは死活問題であり、敗戦に至る戦前政治の再現としてあの未曽有の地獄をまたぞろ味わいたいのかという話になろう。(つづく)

詩の終わり 上が馬鹿なら下は命懸け

 GoToがいつまでもコロナ感染拡大に影響を及ぼし続けるのは誰の目にも明らかであり、即座に全面停止乃至中止を宣言し、同時に、国が国民向けに、的確で当を得たコロナ禍対応のメッセージを発していれば、と言うことは当然に的確で有効で迅速な経済対策と困窮への早急の援助、補助乃至その約束のメッセージを力強く打ち出していれば、ここまで国民を不安にさせることはなかったであろう。その不安もどちらかと言えばどっちつかずの曖昧さの中にあり、はっきり言えば国の態度が明確でないためにあらゆる国からの情報発信に信用が置けないばかりか、あっちこっち右往左往で気の休まる暇もないという、そうこうするうちに気のゆるみは結局コロナ罹患も大したことはないと多寡を括り、マスク無し、大声会話、市中を闊歩し、菌のまき散らし、まさに「ええじゃないか」様相を呈するのは時間の問題、まことに上がバカなら下も馬鹿、一億総馬鹿になって今年も何となく愚かしく暮れ行くという有様だ。桜騒動も安倍の大ウソに司直の矛先もあきれ顔でどうなることやら、それどころじゃないかつてない大規模なコロナ禍がそこまできているというのになんで、安倍なんかに相変わらず振り回されているのか、どこそこのボケおやじ並みの菅なんぞに国政を任せていたら、一億総ボケ状態で、メデアもマスコミもジャーナリズムも情けなくも何一つすっきり解明はっきり解決がなされぬまま、国民はただじっとこの嵐が過ぎ行くのをひたすら我慢の「いい子」で過ごす以外しようもない。

 既に日本国民にはこのコロナに対する抗体ができており(そういう説もあり)、挙って大騒ぎの割には重症化、死亡数など確かにたかが知れており(例年のインフルエンザ死亡例の方が多いというデータもあり)、国家政府が不思議に落ち着き払っているのは感染数の爆発化など問題でなく(軽症者、無症状者の方が圧倒的に多数で)、要は医療従事者のかつてない困窮ぶり以外問題らしい問題がないと踏んでいるとしか思えない。大向こうが言う通り、安倍さくら事件など本来ばかばかしいほど下らない事件で、安倍をむしょに放り込むだけで済むことであり、菅なんぞは菅おろしの大合唱で引きずりおろせばいいのであって、今や、この国の本質は上がバカなら下も馬鹿という連鎖で出来上がっているていたらくだ。こんな国、あってもなくともよい、国なんざなくしちまえ。(つづく)

詩の終わり 現代という時代を超えて生きる withコロナでもコロナ後でもなく

 「吾人は須らく現代を超越(せざるべからず)すべし」、とは、高山樗牛箴言だが、超越するにはその「現代」をはっきりと見据え、認知し、かつ正確に認識しなければ事は現に実を挙げる事にならない。

 「現代(げんだい)は、その時代言及される時点において、現に今、進行している時代」

とウィキペデアは記述しているが、これは正確には「現在」であろう。時代として捉えられる「現代」は多分現在進行形に限局せず、既に過去に属しながら現在に強い影響を及ぼしている時代をも含めるのが妥当だと思われる。

 しかして、現にその過去を事実として改竄し、あったことをなかったことにし、あるいは所謂「修正」を加えて自家規範のうちに組み込み別の歴史をでっちあげる、ということが行われている。この動きに連動しかつ帯同する「post truth」なる世界的現象がこの10年弱の「現代」で、見るから顕著になっていった。そこに見るのは大方「嘘」、あるいは個別的価値観からの既成(既定)価値観への攻撃と讒謗、誹謗中傷、つまりは暴力的劣性分子の騒擾、街宣行為、といった、理論も何もないし当然に論理的な説得力や倫理的な感応力などかけらもない、そういうモブ(全体主義に加担する大衆、烏合の衆)が蔓延る時代を目の当たりにすることだった。

 ネトウヨ日本会議歴史修正主義者、あるいは政権における私家政治の横行、嫌韓嫌中思潮、沖縄琉球差別、官僚の国策的思考停止(辺野古唯一)、原発再稼働、原発セールス、核禁止に関する原爆体験国の不可思議な在り様、優生思想と淘汰主義、大企業優遇政治(アベノミクス)、あり得ないトリクルダウンによる国民騙し、モリカケサクラ事件、学問の自由への牽制、メデアマスコミへの政治干渉、批判的ジャーナリズム力の減退、政府による国家危機への劣悪対応、こういう現象事案は現代の、最も容易に見つかる負の部分に違いない。

 米国大統領選でトランプが事実上敗北したのだが、バイデン同様彼もまた7000万票以上を得ているわけで、これは米国民主主義の圧倒的勝利というようなものではなく、従って世界のpost truth現象に決定的な終焉を告げたものでもない。

 ある種の声にならない声や叫喚、「ええじゃないか」といった理屈で測れぬ情念の迸りは、無茶苦茶な暴動やpost truth的でたらめでなく、正当な社会運動として成立させるに、当然一定の指導的理論を導き手として必須のものとする。しかし現代的特徴はかかる英雄的先導媒体を集中的に支持する基盤の不成立に結果する。

 一人孤高をもって悦に入る、悲嘆にくれるといった屈原の絶望は、その重さにおいて現代ではより複層化した苦悩として精神界の諸相にシジフォス神話的に現れていると思われる。

 ところで最も現代的で致死的な病的傾向と言われる悪性新生物の襲撃である癌腫の出来は、過剰な繰り返される生活上の習慣的な行為が多く原因として考えられるというエビデンスがある。喫煙、飲酒、塩分過剰摂取、運動不足、野菜果物不足、などだ。又、それはその出来から10年程度あるいはそれ以上の時間的経過をもって増殖期に入り、目に見えて症状化する。つまり所謂早期発見というのは1mm程度の大きさ(増殖期以前)になった時点での発見で、其処に至るには何年かの時間が積みあがっている。そして最も重要な事実は、それの(大きさでなく)侵食程度が如何ほどかという判定によってある程度生死を分ける深刻さに見極めがつくということ。

 現代という癌腫はそれが我々にどれくらい深く関わっているかで絶望の度合いを決すると思われる。ここで考えられる最も重大な危機的事案は言うまでもなくコロナ禍であり、その対応如何でどこへ行くかもわからない、癌腫以上に厄介な、長期に亘る自然界の襲撃と見做すところだ。

 少なくとも我々は、コロナ禍を予防的に臨床治療的に、あるいは症状軽減や後遺症対策の完全な解決という視点で見たとき、人類がこれにほぼ全く至っていないことを何となく知ってしまっている。従って、国家政府や識者、専門家などが現在執り行っているあらゆる発言公言の数々を殆ど信用ならないものとどこかで感じているし不幸なことに、歯止めの効かぬ政治環境(機能不全の政権下の劣悪な政治環境)が我々の首を真綿で絞めているという、そういう馬鹿げたジレンマ実態に置かれている。

 つまり、現代は我々を身動きならぬ不自由な生存生活状況に封じ込め、いよいよ絶望的な環境の中に窒息せしめようとしていると考えられる。withコロナ、コロナ後への夢見がちな逃避、いずれもこういう、現実に無理筋で馴化しようとあがく我々自身の倒錯した精神状況を表している。

 現代と言う時間軸を超えると言う事、それはできないことではない。時間が相対的なものである以上、我々はむしろ易々とそうすることができるのだ。だが、意味もなく超えるわけではあるまいし、そこに超えるべき必然がある。捲土重来、自己救抜、衝動、いずれにしろ現代を超越することは、飽くまでも「自由」を手にするためであり、「色即是空空即是色」の惑いと眩暈へ決別するためだ。

 超越した時間上の自己にあって、宇宙の無限やら、ビッグバンやら、数十億の地球の破壊と創世の歴史やら、あるいは古代ローマの人々の暮らしぶりやら、大和の国の古代人の生業やら、我々の視野には大方人間の歴史や地球の歴史、宇宙創造の物語など、数限りないほどの知的精神的広がりが見透かされ、尽きない興味に溺れ死ぬ勢いだ。

 安部がさくらで検察に眼を付けられ始めた。今の検察が司法の一翼を担って、公正で明瞭な捜査手際を見せてくれるか疑問なしとしないが、一応それなりの「やってる感」は見えないこともない。GoToは明らかに国家政府のコロナ対応の不手際、乃至感染症に対する「両是論」めいた愚策を打ったという、どちらかと言えば失政を意味している。日本式は確かに一種の抑制を効かせた効果と言えなくないが、PCR等検査体制については諸外国の方が理にかなったやり方で感染拡大を防いでいる。しかしいずれにしろ、世界はコロナで恐慌状態に陥っているとしか言えない。この現代の閉塞と危機的状況は当分収まりそうもなく、人間の生業も限定的にしか展開しない。しかし精神は必ず自由を求めて、その本来の力を発揮しようと超越的にこの束縛の現状を打破する。

 弁証法は現代を具に分析しかつ止揚して飛躍する。現代を超越するのは、多分不可知論において「無知の知」から発した「知」による翼以外はない。「知」を否定する輩からは何の答えも得られはしない。(つづく)

詩の終わり 菅政権の没落とpost truthの終焉

 菅内閣総理大臣の行く末が安倍前首相同様のものだとすると、安倍が、コロナ禍に対する極めて危機管理能力に欠けた愚策の連発で墓穴を掘った事例からして、この今の日本学術会議新会員任命拒否案件は、就任初っ端に墜落した「説明したくても説明できない」無理筋の私家政治行為で、これをきっかけに主に対コロナ禍の無策を積み上げて失速、瓦解ということになるのか、いずれにしろ、並べ立てた「自助」「共助」「公助」が専ら「公助」が全く機能せず、「自助」段階で国民疲弊、自滅、崩壊というあり得ない亡国的玉砕に破裂する話となり行くらしい。

 未だに56%の支持率(朝日新聞11月調査結果)を献上する日本国民の愚かしい在り様から、上記シナリオは事実上折り込み済みの話で、最早待ったなしの自決的覚悟が要求される事態だ。トランプは何故拒否されたか、この現行米国有権者の意思はどこにあるのか、コロナ禍に対するトランプの乱暴な精神論(玉砕的楽天主義)、その政権に明らかなpost truth的非科学的不見識な性格、人種差別的在り様、その他見るから低劣な政治姿勢に嫌気がさし、自律的自己救済ののろしを上げた結果だ。ある意味、菅のいう「自助」は、自分を救いたければ、お前さん方を助ける気もない私を否定しろという意味にもなる。奴がそう考えるわけもないが、意味はそういうことになる。

 さて、その第一の問題である日本学術会議新会員任命拒否案件は、確かに滝川幸辰事件や天皇機関説事件に相似た傾向を示唆しているものだが、本来、野放しの学問の自由からこそ国家国民に必要な生存生活の有効で有意な資材を提供する結果が期待できるわけで、そこに、本来取捨選択の客観的資格の要件を満たさないはずの一介の政治家風情がその恣意的私家政治的力学的影響を加えれば、国家国民が享受しうるべき学術的恩恵を確実に損ねることが予見され、到底国家国民の諒とするような性格のものでないことは明らかであろう。

 従って、独立的資格を付与されている、一般公務員の例外的存在である日本学術会議が選任しようとする新会員につき時の権力が何らかの介入をすることは、全く許容できない重大な侵害行為と考えるべきところだ。つまり、菅らのいう「総合的俯瞰的」見地というのは当然に独立機関(学術会議)が有する資格的見地そのものにほかならず、たかだか一介の政治家風情が客観的に無資格なはずの身分でありながら、したり顔に物申すような筋立てにはなっていないのだ。だから、彼らのごたごたしどろもどろに言い訳するその見苦しい茶番劇は、折からコロナ禍の切迫した情勢に全く逆行する無駄話であり、即刻国民がノーを突きつけ決着させるべき話に他ならない。

 ところが愚かしい国民の選択の自由(実際は知的不自由)は時に愚かしく過ちを犯し、先の大戦のような結果へなだれ込むが必定で、「憂国」は極まって国民の一人であるおのれの無力無策不甲斐なさに我知らず地団駄踏むという、情けない話になってきている。

 11月18日現在沖縄県発表コロナの状況

 入院中150人(重症者14人、中等症56人)、入院療養等調整中41人、宿泊施設療養中84人、自宅療養中56人、療養中患者計331人、死亡退院67人、累積感染者数3833人

 県警戒レベル3(感染流行期)

 直近一週間の人口10万人当たりの感染者数 16.0人(全国3位)但し累計感染者数は260.8人で全国一

 入院患者のベッド使用率35.7%(全国一) 25%を超えるとステージ3と判定される。

 現在国が行っているGoToキャンペーンが齎したというしかない全国の第三波感染状況は、日医会長が今頃になって指摘している通り現行自公政権の持つ危機管理の無能ぶりが明白であり、その発する国策めいた言動の無責任極まりない性格(先ずはGoToが第三波感染の引き金になった事実を認めず、自粛要請に当たらないという恐るべき玉砕宣言を発し、おのれらの悪策、愚策が国民に加える危難を全く顧みないのがこの政権だ)に国民はさっさと気づいて、選挙と言わずに今すぐ弾劾デモを全国挙げて展開すべき事態だといえる。

 しかし国民はそうはしない。ネトウヨ若年層の軽薄さ、国民活動の中枢を担う年齢層の政治的愚かしさ、更には無力な中高年齢層と、ほぼ過半を占める相変わらずの無定見ぶりが今後ともこの国の愚劣な現代的保守停滞主義で引き続き流れていくのは目に見えている。トホホ。(つづく)

詩の終わり 「自助」とは、国家は何もしないのでよろしく、ということ

 菅という人物は、日本国の憲法や法律がその権限と地位を定めるところの内閣総理大臣(内閣の長、三権のうちの行政府の長で内閣に属する国務大臣の一人)であり、国内はともかく?対外的には世界に向かって国(又は内閣)の「代表者」のイメージで対する者である。イメージだから実体が伴わなくともよい。問題はこの者の権限だが、当然に他の二権、司法と立法府に対してその長足りえず、二権に対して何らの権限も有しないと解される。つまり、「元首」という古い言い回しの権力者というよりは、どちらかと言えば頭一つ抜けた国会議員の一人と言わねばならない、それほどにその権限は限局されているといえる。むしろ限局されている故にこそあらゆる独裁的な権力的横暴は国家体制自体を揺るがすことになるといえる。どういうことか。

 例えば総理大臣が、その口ずから明確に「説明のできない(説明したらぼろが出る)」権力的采配を振るった場合(日本学術会議会員任命拒否案件)、先ずその法的裏付けについていえば、既に過去に中曽根元首相がこれを「形式的任命」と位置づけた先例があるのにかかわらず、現学術会議会長のあずかり知らぬところで勝手に事務方で(形式的任命権というものは)「任命義務とまで言えない」と解釈変更の謀議(というしかない)を凝らし(勿論、ある権力的上位者の支持なり命令に添って)、これに基づいて任命権者である首相、でない者(官房副長官で間違いない)が事前に6名を排除し総理大臣にあげた、という、まさに「説明のできない(説明したら必ず追及される)」経緯を辿ったということだった。

 事実関係は誰が見てもそういうことだが、ここで問題になるのは菅義偉という人物が内閣総理大臣で、その権限が局限されているにもかかわらず、専門性の高い独立機関という位置づけの、一般国家公務員と同列にはない日本学術会議の、専門的にしか評価のしようがないはずの会員に関する選任内実を、たかだか一介の国会議員に過ぎない見識(客観的評価に値しない)で一方的に決めつけ権力的に不当に評価した(官房副長官の意見に従って総理大臣が最終決裁をした)という一点で、その評価の「説明のできない」部分こそ、時の権力に批判的な意見の持ち主に対して、不当で非民主的な、時代錯誤の、結果的にはかつて横行した思想的弾圧というものを試みた(学問の自由に対する挑戦というほどのものではない)ということになる。菅他、官房長官などがしどろもどろにでたらめ答弁しても彼らのしていることは明らかに戦後民主国家体制への明白な背信行為、代議員に過ぎない輩の途轍もない越権行為、一種のテロといえる。

 一方今回の行政管理に関する越権行為の確信犯そのものであるこの杉田官房副長官は、まさに警察庁上がりの老獪で高圧的な「特高並み」のナチスヒムラー亜流であり、秘密警察並みの陰険さで官僚等支配の現体制を仕立て上げ、アベスガイズムの権力維持・独裁体制構築の立役者(陰の実力者、隠れた総理)と目されている。排除すべきはこの男だ。この男にある暴力団のドン的強権主義は、この国の戦後の悪しき保守主義路線が醸成した利権構造そのものの土台であり、post truth風潮をパンデミック化すべく機能する毒虫以外ではない。

 果たして論点すり替え学術会議攻撃は定めて様々な国家的民族的歴史的悪臭を放っているが、ネトウヨ、政治家ジャーナリスト等彼ら自身の軽薄で底の見えた正体を曝け出している。コロナ禍でも仕事をせず、おのれらの責任を「自助」責任にすり替えて専ら空虚な「反対の反対」論をでっちあげて悦に入り、そこにある答えのない答えに自己満足するていたらく。トランプといううつけの愚行に無意味な喝采を喚きたて、本来的価値を蔑ろにして倒錯した熱狂を喜ぶ。かつてナチスドイツの国民が陥った、理由のない、従って説明する論理的筋立てのない「ある声」に溺れたように、「何故熱狂したのかわからない」未来を先に立たぬ後悔とともに迎えることだろう。国民の猛省が求められている。彼らを選んだのはほかならぬあなただ。(つづく)