沖縄の闘い

琉球沖縄のアイデンティティに対する圧政との闘い

詩の終わり 自公政権の時代錯誤な儒教的封建思想

 去る2013年9月7日、日本国元首相安倍晋三がオリンピック招致最終プレゼンで世界に向け「原発汚水はアンダーコントロールThe situation is under control」と嘯いた結果(事実上の賄賂.も飛び交う中.....竹田JOC元会長)誘致されたまさに曰く付きの東京五輪にあって(この事実を日本の多くの五輪推進者たちは見事に閑却している)、その組織委員会会長が公の場で躊躇いもなく発した性差別にまつわる愚かな本音(男尊女卑)は、この曰く付き東京五輪というものの世界に対する度し難い低レベルな本質をいよましに露呈し、ここから敷衍して(会長自身属する党派である)現行自公政権の在り様が、現代世界の常識や理念にそぐわない(性差別等)甚だ時代錯誤な、異臭体臭芬々たる醜悪な顔貌を晒しているという話ともいえるということ。

 先の大戦における敗戦国日本の、アイデンティティを喪失した戦後の歩みが齎したであろうこの絶望的な精神的現実的状況下、post truth対real truthの日本版が漸くその緒に就いたということになろうか?post truthの流れがその本来低劣な正体を止めようもなく漏出し始めたことにより、本来常識的でさえある質の別流を生じ始めているという印象だ。

 安倍第二次政権以来、この政権に漂っている時代錯誤な儒教的封建思想、言うならば旧大日本帝国的戦前価値観のゾンビ的復活など、今更ぬけぬけと恥じ入ることもなく、既に世界において完全に否定されている彼らの父祖の忌まわしい事跡(侵略戦争)を平然と肯定、礼賛さえし、それを政治的に現代に打ち展べるその厚顔さに、我々は渋面とともに辟易して、同じ大和民族でありながら思わず耐え難く吐き気がするのだ。

 東京オリンピックという、この国にとっては三度目(1941年開催権返上、1964年実施、2020年延期)になる世紀の祭典なるものが、この目の前のコロナ禍にあっては状況的にも非現実性という本質において宙に浮いているという事実が我々に何時までも引っかかるわけで、曲がりなりにも実施される(無観客、徹底した感染予防策の下で)というなら、それはそれで君らが勝手にやればよいという程度の認知段階にある(何としても実施するというなら、それはあらゆる権益、利益を得る者たちの充足を保障するということにすぎない)。

 つまりIOCやらJOC、はたまた現行政権の政権維持と党派的肩入れ、東京都(知事)の成功譚願望等、内在する諸々の利権、権益、私欲が強烈に蠢く中、如何にこのコロナ禍で有為な結果を残すかという一点に全ては掛かっているというわけだ。一方国民にとってそれはなくもがなのことで、それによる功罪は甚だしく不明確だ(むしろ不利益だ)ということは別の由々しき問題となる。

 何故なら我々にとってはいずれにしろ五輪強行での、多くは故知らぬコロナ禍の感染拡大、拡散、重症化加速や後遺症等病態の一層の深刻化、内外からの移入者による市中感染的な無差別被害波及、変異種ウイルスの新たな蔓延、一般国民向けの、結果的に多岐にわたる明白な財政的損失など、これらが決して生じないということが保障されぬ限り(既に国民的被害は尋常を超えている)、何をかいわんや、オリンピックどころでない現状に変更はないのだ(復興アピール五輪というキャッチフレーズくらい現実にマッチしないものはないし、1964年時の戦後復興アピールともまるで次元が違う)。

 一方では、少なくとも安倍晋三という一国の宰相が世界に向けて大ウソをかました事実から、日本国が国家として民族として負うべき世界へ向けた精神的代償は、東京五輪開催権返上以外、今の自公政権下では到底払いきれない根深い棘としてある。それは結局そういう指導者を選んだ我々自身の問題となってツケが回ってくるのだ。

 全ては彼ら自公系右傾化グループが空しい願望として史実改竄し、修正し偽作する大日本帝国の罪としてある戦争時代のことに帰着する。そしてそれは恐らく戦争行為だけに限局した問題としてあるわけではない。また敗戦という事実にだけその結果的表象が集中することもない。我々は、我々自身の問題として、戦後のこの国の歩みが明らかに示している、恐らくは破滅と堕落への道に他ならなかったはずの日本の近代化の、その本質を、残酷に、我々の血肉から抉らねばならないということになる。

 何故この国には何時までも儒教的封建思想が根深く残存し続けるのか、男尊女卑、官尊民卑。延いてはアジア蔑視、対中対韓意識、国連勧告にある琉球民族ネグレクト、脱亜入欧、対欧米劣等意識。こうした複合心理は通常なら誰にでもあるありふれた作用と考えられるが、民族として国家として、あるいは権力者の通底心理としてあるものだとすれば、最早個人の問題を超えて公的に取り扱わねば済まない深刻なものだということになる。

 しかしながら我々は人種差別で事件が絶えない欧米の在り様にも同様のものを感じないわけにはいかない。ヒトラーは欧米人の根深い反ユダヤ心理に付け込んで彼の残虐な排他的優生思想を実行できたともいえる。一方、彼らの反ユダヤ心理は逆に言えばユダヤ人の選良性、あるいは優秀性、に対するかれらのコンプレクスが底にあるともいえる。これは例えば日本人の対中対韓意識にもみられることで、歴史的には日本の国としての生成、展開の過程には中国朝鮮なしには語れない経緯が大きく確実に横たわっている。言ってみれば大陸と半島の存在がなければ抑々日本という国は成り立たなかったはずなのだ。欧米の宗教的文化的歴史の根底にユダヤ教から出たキリスト教が関わらないわけがないというのも明らかに言える。更に言うなら、人類の根源はアフリカでありその祖はアフリカに発した類人猿に他ならない。言わば人類の母はアフリカ系人種のわけで、その人類的母胎を否定しこれを虐待する白人はおのれの出自を恥じるできそこないの餓鬼にすぎないわけだ。米国の黒人差別問題は、人類史的にはどうみても退化現象としか言えない。同様に日本の儒教的封建思想はまさに精神的後退事象というわけだ。

 それでも歴史は進む。その先に何があるかも知らないままに。しかし時間はどこまでも相対的であり、解決に時間がかかっても解決による真実の青天白日招来はこれを補って余りあろう。儒教的、ということは勿論儒教そのものではなく、それが醸す封建思想が問題となる。あらゆる不平等、不公平、なし崩しの現状維持、矛盾だらけの見切り発進、社会的不正義の不当な横行、などなど、全ては前時代の腐った残りかすであり、排除すべきはこいつらだ。(つづく)

詩の終わり コロナ禍という自然界の警告に対して人類が対応すること

 沖縄は1月31日時点で

入院中359人(国基準重症者39人、中等症143人)

入院・療養等調整中104人、宿泊施設療養中132人、自宅療養中164

療養中患者計759人 死亡退院90

累積感染者数7585人  (沖縄県発表)

 因みに本島北部名護市(の数値では

累積感染者数348人(解除者291人)、北部保健所管内では

累積感染者数122人(解除者111人)、那覇市では

累積感染者数2340人(解除者2182人)

 宮古島市では1月に入って27日までに168人の感染が確認されている。同市の26日までの直近1週間の新規感染者数は84人で、人口10万人当たりで151・11人に達した。都道府県別で全国1位の東京都は25日までの直近1週間で56・03人で、東京の約3倍に上っている。(琉球新報記事)

 我々には、この国でこの新型コロナが一体向後どうなっていくのかさっぱりわからないという状態にあり、第三波襲来以降いよいよ深甚な不安と恐懼、どっちつかず(国が発するメッセージの薄弱さのせいで)の不安定を甘受せざるを得ないような状況になってきている。医療崩壊、医療壊滅などという深刻な影響を醸す文言も飛び交う。今、国(や自治体)から出されている限定的緊急事態宣言は、様子見で2月7日を睨んでいるが、どうやら「掛け声ばっかり」で収束の目途も立たぬままずるずると延長される気配が濃厚らしい(検査数との比較にない感染者数の増減を無作為に出す報道も後を絶たない....東京都は偽収束傾向を演出してないか?)。

 飲食関係からの感染が、その感染者の家族への感染、家族の周辺接触者の感染、接触者からの感染拡大と数珠つなぎで起きており、又、無症状、軽症者の自宅療養における家族間感染、検査してない隠れ感染者の、活動経路における市中感染、市中感染による経路不明の感染拡大、そして変異性ウィルス感染者による市中感染など、今のこの国のコロナ対応社会体制の、ほぼダダ洩れ状態に置かれた感染実態が浮き彫りになり、自助共助公助(菅語録)などといういかにも単純に過ぎる言葉の羅列が、如何にこの国の度し難い真相を深刻にも覆い隠しているかがわかる。聞こえてくるのは、率先、事の処理に対応して適切にかつ真剣に動くべき代議員たちの、余りに真逆な言動の数々だ。我々は、いかにも苦境に立たされている我々自身の境遇に何とは知れず不平不満が募り、国会議員たちのほぼ満額で手にする歳費の半分でも国民に還元すべきと、思わずにいられない。「給料泥棒」などという侮言も出てくる始末であろう。

 公助から見られた自助(自ら助ける....「天は自ら助けるものを助ける」というが)というものは基本あり得ない(公というのは天でも神でもなく人であり、しかも主権者から見ればどこまでも従、公僕にほかならない)。公に対して言えば「自ら助ける」のはプライバシーの領域で、公はあくまで外側からこれを扶助、補助する立場に置かれる。つまり、菅の言う自助に始まる列言は、最初から明確な公助が厳然とあって成り立つべきもので、言ってみれば公助共助自助が正しい並べ方だ。しかし、アベスガイズムの目指すところからすると、彼の言っているところは、国民主権を排した「国家主義」そのものを言葉巧みに言い換えたものと解される(お前たちがおのれの分を弁えて大いに努力するなら我ら公は少しばかり助けてやらないでもない、と言っている)。

 「最終的には生活保護がある」という菅の放言は、残念ながら彼の本音であり、国民全員が厳しく制限された国営事業(生活保護法)により選別され、残余は「死刑」に近い放逐の対象となる。これが彼の「優生思想」であり、彼の対コロナ無為無策、あるいはGoToなどは巧まれた国家規模の国民選り分け作業の始まりだ。どう転んでもこのコロナ禍によりまずは中小零細企業の淘汰が事実上確実に進捗し、財閥、大企業、富裕層、保守系政治集合に利する企業だけが生き残る。勿論同時に高齢者・病弱者がコロナにより狙い通り弾かれ、無症状軽症者が多い(不逞な感染媒体そのものの)若年層が主体となって現行年齢形成構造体を逆転させる(自公政権を支持する世代層)。

 日本経済と社会保障に関して、人口減少社会少子高齢化社会における将来の社会保障の持続困難性を指摘したうえで、企業の生産性向上が絶対に必要であると繰り返し主張している。特に技術革新や海外展開に対応できる人材が乏しく、最新設備の導入にも限界がある、日本に過剰な数がある中小企業が生産性低下の大きな要因だとし、そのために最低賃金を引き上げて経営力と競争力がない中小企業を淘汰・統合するなどの政策を行うべきであると提言(デービッド・アトキンソン)....菅の心酔する理論

 恐ろしい話だが、冷静に見ているとそのように解釈できると、今の日本の国の在り方に納得するのだ。思えば安倍政権の長期の狂気じみた在り様は、かかるコロナ禍などのパニック媒体を利用してどさくさ紛れに私家政治を実現しようという流れだったとしか思えない(病気を隠れ蓑にコロナ禍の責任逃れで姿を消した)。菅に至っては、コロナ禍を勿怪の幸いに、弱者(中小零細企業、高齢者、病質者)淘汰による財閥復活、大企業を中心とした経済力と生産性向上により一気に(旧)大国日本を世界に覇する目論見だ(この宰相の冷酷な片言は決して答弁下手程度の話ではない)。

 序に言えば菅はポロっと「国民皆保険」の見直しという流れを口にした。もし皆保険でなくなれば貧者は的確な対症医療を受けることができなくなり、今なら生き延びうる生命がこぞって失われるという話だ。これも「優生思想」に通じるのであり、コロナに限らず、一切の治癒可能な病変に罹患する人々を確実に見殺しにすることだ。得体のしれない上層上流人種群が生き残り、ヒトラーナチス・ゲルマン優秀民族並みに第三帝国を現出し、辛うじて生き延びた弱者貧者下層下流人群を隷属させ、絶対的階級制度のもとに君臨統治する、これが彼らの目指す未来の日本国に他ならない。但し菅が狂熱的に国家主義を信奉し、ヒトラーに次ぐ近現代史上2人目の凶悪な独裁者ぶりを可能にすることなど俄には信じられない。世論調査は確実に菅を放逐する方向へ向かっているようだ。しかし、コロナが去ったらどうなるか?おのれに直接危難が降りかからぬ限りこの国の民は、「元の田沼恋し」並みにどっちに転ぶかわからない、というのが歴史的事実においてはっきりしている。つまり先の大戦の惨禍から学ぶことなく、戦後自公政権のような非民主的な政治媒体を無批判に受け入れ、今日の憂いを招いたところからもわかろう。

 現代資本主義社会の趨勢は、功利主義と優生思想により弱者淘汰、トリクルダウン的トップダウン方式のおこぼれ僥倖のみが民主主義の担保として付加された、完全な貴族社会ヒーラルキーを構築すべく雪崩を打って向かおうとしている。

 しかし、このコロナ禍は我々の前に体制側の本質的綻びを少しばかり開陳して見せている。そして黙っていればその災禍は我々自身に必ず残酷に確実に決定的に襲い掛かり(大震災豪雨被害原発事故の事をゆめ忘れるな)、全てを跡形もなく奪い去ることが明らかになりつつある。

 コロナ禍など、こうした自然災害、自然がその脅威を示し、手の付けられない猛威を振るったとき、人類はそれがほぼ大過なく過ぎ去ることを希いつつも確実に甚大な深い傷跡を残すことに呆然とする。しかしながら人類は、こうした深刻な災害を通して自然が教えている、深い哲学的な意味にはさほど関心を払わない。一方、天然痘撲滅などに成功した人類は、現代人の過半を有為に罹患させる悪性新生物に対して決定的な局面を迎えるには至ってなく、そしてこの度の新型コロナには一年近く有効打を打ちあぐんでいる(今のところ我々はこれが速やかに収束し元の生活が戻ることなど殆ど想像できてない)。疫学上の問題だけがあるのでなく、それに対する我々の生活形質が異常なほどゼロベースで回復可能性を減じて居るという現実が見えている。つまり、高まりつつあった未来志向型の生活形質が明確に原初的な改変を迫られたという経験だ。そこに依拠していたあらゆる生業が生命線を絶たれるという経験。国家規模で救済すべき実態に国家機構が全くと言っていいほど対処できず愚策に走り、愚劣で恥知らずな面貌をひけらかしたまま、「なるようにしかならない」とでも言いたげに責任放棄してやまないのだ。

 さて人類はこの期に及んで、与えられた精神の革命という契機に際し、どのようにしてその実際の着手に至るのだろうか?

詩の終わり コロナ禍を死地と捉えてこれを超える 3

 post truthは、第二次大戦後の戦勝国連合(主に米国)が獲得したはずの恒久的永遠不滅?の帝国(パクスアメリカーナ)において、約70年ほどの時間経過のうちに必然に浸潤されずにおかなかった社会的「膿」の満を持した発現であり、それは主に西側陣営の、とりわけて米国と日本で顕著に見られた印象的に永続的な現象であり、そしてこの現象は、明確に、国民自身が(日本の有権者にあっては、ほかに適当な者がいないからと言って)選んだ保守系の最高権力者たちの脳内にさながら寄生虫のように蔓延り(加えて元々あったネトウヨ体質が暴れだし)、漏れ出し、あっという間に所かまわず周辺を汚染していった。

 この現象は事実上パンデミック化した。そして古来、常識化し良識化したはずの自然発生的理性(コモンセンス)の一切がこの現象の前にその無力さ加減をいやというほど曝け出し、非常識、非良識、反知性、非論理、非倫理という病原菌を、時や場所を選ばずにまき散らされるはめになった。

 尤も我々は、彼らの正体の、大小問わず劣悪な事例をいくらでも数え上げることができる。そしてこれを何気に彼らへの攻撃材料とするのだが、残念ながら、むしろその害毒を益々分散、拡散拡大するに寄与しただけで、結局日本の多くの若者が早々に敗北宣言し尻尾を巻いて現状維持に転がり込んだように、国全体がお手上げな話になり終わろうとしていたのだった(当然これには権力者たちの恣意や私家政治傾向による在来統治機構へのノンコンプライアンスも大きく関与する)。

 この、社会現象上のほぼ不可逆とも言える劣性な構成分子の跳梁跋扈は、自然界の脅威としての現行コロナ禍を先取りしたかのように、手の付けられぬ伝染性を帯びかつ我が物顔で、さながらこの世の春を謳歌せんとするに至ったのだが、人間界でのこのパンデミックの元凶は、自然界の途轍もなく圧倒的なパンデミック(今やそれに対する予防法も治療法も暗中模索の中で、エビデンスや治験の報告も手うすなまま実験的に施されようとしている)の前に、その劣性を糊塗する間もなく、手の施しようもないパニック状況(gotoもアベノマスクも、手遅れな後手後手の対応も、全てこれを示している)に落ちていったといえる。それが例えば現在のこの国の国家政府の、自公政権の、アベ・スガイズムの在り様だ。米国の在り様もトランプといううつけの独断専行が国民を危難に落とし込んでいる(大統領選でこの男の見せた明らさまな醜態は、パクスアメリカーナの終焉をにおわすに十分な出来事に違いない)。

 コロナ禍にも見る、現象としての現代は今、何らかの根本的な意味の変更を人類に差し迫っているようだ。人類は、この災禍の暫くは恐らく相当長期な影響のもとに生き延びるしかなく、一過性の災難で元の状態へ復帰するという、これまでの当たり前の対応ではありえない、何か次元を異にする哲学的な課題を突き付けられていると思わないわけにいかない。

 コロナ禍の現代を如何に生き、如何に死ぬか、それは結局人は如何に生き如何に死ぬかという、古来常にあった哲学的な根本的な問いに今や明確に答えを出さねばならないという意味合いにさえなろう。華厳の滝に投身する哲学青年の「曰く不可解」という答えは今の現代人には許されない。答えがなければ生きていけず、かつ降ってわいた自然死(病死)を仕方のない運命として受容する以外にない(しかもある種の死はほぼ突然死に近い例を示している)。勿論如何なる死も運命には違いない。勿論誰も答える義務などないし、答えなくとも何となく幸運な恩恵が形質を問わず齎されぬとも限らない。

 産業革命は市民革命を基礎に近代史に決定的な意味の変更を開始させた。それは専ら勢力的にも資本主義社会の世界的な隆盛を誇ることであり、その社会矛盾の改変を企図した共産革命もまた明らかにこの社会が生み出したものだと一応言える。19世紀から20世紀へ、更に今世紀にわたって、資本主義社会の優位性はここまでまさに揺るぎない鉄壁の牙城を現出させていた。一方当然だが社会矛盾という、文明史的に必ず付きまとう問題性は決してこの社会から消えようとしない。

 コロナ禍が引き起こしている世界的な変化をどう捉えるかという問いかけは、こういう文明史の文脈の中で人類に課せられた歴史学的課題になろうとしている、と思われる。

 我々日本人は、2011年3月11日に襲い掛かったあの大震災と原発事故にあってこうした課題にまともに直面すべきだったし、その後この国の至る所で引き起こされた人災ともいうべき豪雨被害やその他の自然災害においても、国を挙げて何らかの問いかけをしなければならなかった(しかし災禍を齎した者を裁くべき司法は愚かにも沈黙したし、誰もかかる根本的な対応を必至と見るものはいなかった)。今の為政者はこのコロナ禍でさえ何となく近いうちに収束するだろうと安易に閑却して倦まない(その危機意識のなさが、国民の未曽有の苦難を招いていると、今では誰でもそう思っている)。

 自然界は人間界?に対して何を伝えようとしているのか。自然界の脅威は我々の生死に関わる次元で待ったなしの対応を強いている。

 物質文明の極め付けは人間の「エゴ」を炙り出し、煩悩から発する欲望の充足をその知的狡猾さにおいて限りなく計算高く密に、微に入り細を穿つ精度で深め、遂には明らかな優生思想(エゴイズムを完全実現するために弱者、劣勢者を極力合理的に排除する思想)の浸潤が多くの社会的上層部(知的上流階級、富裕層、ブルジョア政治家など)の脳漿に支配的に見られるにいたった。かつて第三帝国を目論んだナチスヒトラーが実際に試みたあの思想だ。してみればヒトラーという悪の権化が奇異な怪物性で突出していたと勘違いしたのは我々自身なのか?

 こうした優生思想が社会矛盾の根本解決を企図する運動一般と明らかに敵対する結果、ナチス的秘密警察的国家主義的な政治勢力の、一見合法的でありながら悪辣で狡猾な脱法行為による合目的的世界制覇はほぼ確実に現代史を凌駕するに至ったと思われる。あの当時彼ら自身が目を覆って見せたはずの第三帝国の惨状(アウシュビッツ)を、印象的には人々の耳目から巧みに覆い隠し、知らず知らずに固定化された格差における諦念(抵抗不可能なユダヤ的奴隷的あきらめ)を植え付け、ここに難攻不落のヴォルフスシャンツェ (Wolfsschanze)を設えることに成功した。ヒトラーの野望はこうして死後76年の現代においてその実現を見た、というわけだ。

 菅首相にみるこの優生思想は、コロナ禍の今明瞭にその正体を曝け出している。彼が企図する明確な人民淘汰の手管はコロナ禍を利用した弱小集団(中小零細企業や社会的弱者)の自然的な廃滅という結果だ。GoToも手遅れ気味の対応も、殆ど全く効果のない緊急事態宣言も全てここに向かっていくための布石であり、誰もそのあからさまな手管に正面切って反論しない今の日本の愚かしさも相まって、彼の企ては実に静かに進んでいる、丁度沖縄に対するのと同じ「粛々と」執行される有無言わさぬ問答無用の政治行為。これは安倍晋三などより遥かに念のいった仕掛けであり、安倍というスケープゴートモリカケサクラ事件を安倍一人の対岸の火事視し、杜撰な検察案件に落とし込んで菅自身は逃げ切りを図る策)さえ織り込んだ、手の込んだ演出だ。

 いずれにしろ、どこから望ましい革命の火の手が上がって、この前代未聞の人為的淘汰の悪行がそのみすぼらしい末路をみせることになるか、我々にとってその反撃の道のりは極めて険しいものになる。今日本国民は、意匠を凝らして登場したナチの亡霊、ゾンビたちの前に、かつて無残に虐殺されたユダヤの民同然の境遇を体験している。望まれるのは、おのが身の不安におののきながらびくびくと行く末を案じる臆病な民にならぬよう、亡霊やゾンビと決然対峙し各自に相応しい身の振り方を講じることだ。コロナ禍は現代人に、人々の心的解放(真実の、新たな、人間的な意味の完全な自由を獲得すること)や、事に当たっての生死を超えた覚悟を要求していると、思われる。この死地は、自然界の人事への悲劇的な襲撃を通して、ある超越する他者が人間に向け、その罪業の裁きを繰り返しているものだと想像したくなる。救いは回心にしかないと。如何に回心するか、それは各自がおのれの精神を駆使して、真に深く内省することからしか導かれないようだ。

詩の終わり コロナ禍を死地と捉えてこれを超える 2

 現行自公維系政治権力集団が醸し出している政治上の問題(コロナ禍に適宜対応できてない機能不全状態、乃至安全保障思潮の決定的不備、モリカケサクラ等安倍案件と菅関係に顕現した人格的道義的退廃及び法的無責任実態)の中で考えてみると、我々はここ数年のアベ・スガイズム、あるいは世界的現象であるpost truthも含めトランプ旋風などに対して、それらの劣悪な形質(論理性、倫理性、理念性における明らかな劣化)に対して過分で不相応な(それらに対し必然必要のない)関心と、過剰ともいえる批判や非難を継続して繰り返してきたように思われる(勿論その過剰は安倍・菅体制自体の過剰な悪辣さ狡猾さに由来する)。

 当然に他の重要案件に対する実質的な言及、追究不足を懸念する声も聞こえてくる。しかし「万機公論に決すべし」という議会民主主義の原則からすれば、何事も軽重問わず稟議を尽くすのが本来的な在り方だ。

 さて、それらの形質は、今や世界や日本国民共通に近い内容でわかられてきているかもしれない(安倍の敵前逃亡、菅政権支持率激減やトランプの失墜、海外メデアのまっとうな政権批判などはそういう印象を与える)。但し分析・総合に係って確たるアベ・スガイズム等否定の決定版をぶち上げたのかと言えば、やはり依然何となく心許ない在り様でしか示されてない(コロナ禍で益々見えにくくなり始めている?)。

 こういう感覚は、アベ・スガイズム等の有する常識を超えた自己保存習性(我執)、執念深い権勢維持本能(政治エゴ)に我々が辟易させられているという苦々しい思いが関わっている。一方では、これに加担するかのように、有権者の政治意識や時流感応力が低下しつつあるようだ(しかしこれもこの国の国民性と関係している)。

 我々はモリカケサクラ事件といった安倍晋三案件やこれへの菅義偉の関係性を、残念ながら勧善懲悪や決定的断罪という範疇では扱えない、何か奇天烈な時代背景の中に埋もれるようなものとしてしか処理できないように予感してしまう。だから、時の権力に取り込まれて国家運営上分立できてない(分立を阻害されている)司法権の驚くべき脆弱さに絶望的な現状を悲嘆するという結果に終わるのだ(安倍晋三一人立件できない司法は、最早この国の終焉すら印象させる)。

 尤も我々は、20世紀初頭から数十年にわたり世界に吹き荒れたファシズムやナチズムに対するハンナ・アレント的解釈を何となく踏襲して、それらをいかにもありふれた劣性の表象(モブ化)として身近に引き寄せ捉えるべきだと安易に考えていた節がある。つまり我々はアベ・スガイズム等を20世紀的劣悪現象の敷衍という線上で何となくあいまいに転がしていたに過ぎないということ(いずれは遠からず滅亡し消え去るだろうと)。だが安倍・菅は果たして目に見えてステレオタイプな悪の権化であろうか、多分そうではない。彼らはその権力に対する執念深さで悪存在と言えるが、しばしば暴露される劣性的な正体において「小物」であり、「小悪党」であり、歴史に良くも悪くも深く刻まれる何者かであることはないと。

 (世界の放縦ともいえるネット的環境の中では情報の錯綜と同時に我々の脳髄の中も意外にケアレスミス的な混とんを囲い込んでいるかもしれない)。

 さて、1981年以来日本人の死亡原因のトップは癌である(約3割)。また3人に2人は生涯のうち何らかの癌に罹患するとも言われる。だが癌の発生メカニズムは依然杳としてつかめてないのが現状だ。これに上乗せするように、今、変異性感染症コロナウイルスが俄かに世界を震撼させて止まない。そしてその防御方策を世界中が躍起になって探しているが一向に画期的なものを示しえてないし、ワクチンとはいえ予防でなく、せいぜいが症状緩和、重症化抑制しかできないものだといわれる。ある意味、コロナはひと頃の癌に対するのと同様な運命を歩き始めている。つまりこれに罹患した瞬間、恐怖と絶望の淵に落とされる等、禁忌的扱いにまで落ちるという非現代的なミステリー化けしている。

 日本国民にとってかかる死病とつきあうに現行自公政権のような政治媒体を選択したのは大いなる不幸であったし、現に奈落に落ちる思いを味合わされているのは間違いない。まして嘘と隠蔽、ごまかし、政権維持能力以外の脳を持たない安倍・菅体制の恐るべき長期存続を許したのは返す返すも残念なことだった。

 トランプ出現に見る戦後世界体制の中の米国のイデア的凋落は見るから悲惨なものがあり、パクスアメリカーナの没落は時を置かず現実のものになりつつある。恐らくはこの落ち気味の強国に追随し手を結び、併存以外の道を模索しない日本国もまた、近い将来に無残な結果を用意していることは疑いない。

 例えば沖縄における日本国の誤った施策の数々が何らかの代償を払わされるだろうと危惧されるのだが、それは専ら、この国の戦後体制の思考停止した在り様からの当然の帰結であって、今更後悔しても始まらないし、辺野古などは恐らく前代未聞の国策誤謬として「国恥」の代表になり了すであろう。現在辺野古大浦湾の埋め立てに伴う環境破壊は、此処を含む奄美琉球島嶼一帯が自然遺産登録を目指すという真逆の企てに対して、正当な何らの理念的解答も持たぬまま、人間的愚かしさという既定路線を突き進んで止まない。これも近代日本がむしろ運命的に背負った国家的民族的な宿痾のなせる業であり、今アベスガイズムの場当たりな従米主義ばかりが突出しているように見えるだけで、実際は歴史的に不可逆なこの国の民族的性向そのものが因となっているのだ。

 いずれにしろ今喫緊の重大な支障はコロナ禍にほかならず、ここを死地と捉えて死活問題とし、生きるか死ぬか、生き延びるのか、成り行きに任せるのか、最終的には個人の問題に究極する。当然我々の人生の最終局面として如何に生き、死を迎えるかということにすべては収斂する。

 パスカルは神の存在の有無は我々自身の賭けの問題だとした。「全体と虚無の中間存在」で、永遠に浮遊し震撼する脆弱で儚い葦のような我々は、さながら葦のようにうそうそと「考える」だけのものでしかなく、しかも考えることにおいてのみ霊長類たる人間である存在性が見える。デカルトも同じことを述べる。ここに立つなら、この神の前の小さき者は「知られざる者」「知りえないもの」として我々の生と死を見つめることになろう。

 我々が超えるのは、生きるためにほかならず、此処に留まることが意味のないことだからであり、我々の思考、行動、認識が生きる運動の中にしか意味としてあり得ないからであり、「不安と臆病」に苛まれて出発できない愚を拒否するが故だ。生はかくして死を超え、運動体として永遠に神の場と時において人間であり続ける。 

詩の終わり コロナ禍を死地と捉えてこれを超える 1

 このかつてない規模の、第三波襲来中のコロナ禍は、国(菅政権)の不適切で時宜を得ない対応の、無理筋な継続(失政を認めない、分科会の提言を無視する、自治体任せ、無責任発言)である天下の悪策愚策?GoToキャンペーン(や持続化給付金等休業補償などの制度設計不備)などにより、感染症対策も経済もいよいよ収拾の付かない大パンデミック事件(一種の戦争状態)となり、国民を戦後かつて経験したことのない奈落の底へ引きずって行くのが目に見えてハッキリしてきたと言えるだろう。軽く言えば、第三波も程なく乗り切れるだろうというのが国家政府の基本姿勢だ。

 この事実を日本国民は若年層から高齢者まで等しく共有して、待ったなしの自己保存、自律的手立てを早急に実行すべき時機に来ている(それは勿論今までやってきた自粛やステイホームばかりでなく、コロナの被害がよもや自身に及ばぬような徹底した手立てを講じるという意味だ)。自治体は既に国を見限り自律的独自対応へ向け始動した、というよりしないわけにいかなくなった。医療体制の逼迫は深刻度を増し、医療崩壊というべき事態が刻々と迫ってきている。

 現行国家政府はあってないようなものに成り下がった。むしろ存在悪でさえある(未だに5割近い支持率を献上している若年層の無知な対政権現状支持など問題外だ)。今やこの無能政権に牙をむいていつも通り安倍以来の政治批判をしている気さえ起こらない(あいつらはいずれ闇の彼方にいつの間にか消え失せているだろう)。

 政治機能不全実態は確実に、その災禍の現場たる医療従事者、医療関係者に特化して現れているし、GoToで菌がまき散らされる市中感染空間に、無下に放置されている国民生活のストレスもいや増している。また、無症状軽症者が多数を占める少年青年壮年層の、放縦と言っていい無作為の活動を抑制できずに、結果として、彼らが立ち戻る場所にいる高齢者弱者の感染、重症化、死亡者数を増幅拡大化しているという実態がある。(これには、国が国民向けに危機的状況の警鐘的メッセージを発しないという、国家機能不全状態が根底に要因としてある。こういう事態を招いた自公政権や安倍、菅内閣の責任はあらゆる意味で重い。言ってみれば後々戦犯として扱われる成り行きとさえ言えるのだろう)。

 (検察立件対象にあふれた、利権既得権エゴイズム塗れの)現行菅内閣が動く契機は当然に己らの権力保全や利得に関わること以外ないことなど最早自明の事とわかられている。GoToどころの話ではない。そんなものにかまけているのは一部の富裕層、暇人、高給取りばかりで、一般国民は最初からステイホーム、不要不急の外出自粛をしているわけで、それの経済効果は明らかに偏頗でたかが知れているばかりか、理屈から言えばやらないほうがずっとましという結果になっているわけだ。

 両是論的な二兎追い政策はいずれにしろ愚劣だ。そこに巧まれた政治的技術など全く見当たらない。しかも両是論さえ成り立たない(経済優先施策、感染症対策の希薄)。分科会提言の軽視は結局国民の命の軽視、結果するところ明らかな戦犯事案と言える。現自公政権の在り様は戦前の参謀本部のそれと相似ている。但し、当時翼賛する世情から現状の正しい認識は阻害され、今は逆に著しい情報氾濫とともに様々な見方を生み、翼賛自体を不可能にしているし結果国民はみな、ばらばらの状態で何となく自助努力だけが有効な生き方となりつつある。しかしそれは菅の言う自助とは全く意味が違う。

 つまり現在、日本人は孤独な一個人としての、精神的自律的試練を自ら自身に課す以外、生き延びる道筋が見つからないという土壇場に置かれているということ。極端に言えば「死地」に追いやられているわけだ。そこで「活路」を見出すには「死の恐怖」の超克以外ない。

詩の終わり 戦前政治の復刻版で国民は死地へ追いやられる

 沖縄はいつの間にか、この北部の地域にも100人を超えるコロナ感染者が見られ、現在20人の療養者を数えるようになった。今玉城デニー知事は病気療養中だが、観光立県の沖縄がGoTo除外となることを望まぬ旨既に公言している。確かに県外来県者に起因するコロナはごく少数で、むしろ県内での多人数飲食等会食や家庭内感染、職場クラスタの方が際立ち、一方で感染経路不明の市中感染リスクが高まっている。当然県民は自粛的に不急不要の外出は極力避け、集団的な県内移動も多くは認められない、しかしながら。

沖縄県におけるコロナウイルス感染症陽性者の状況(2020年11月30日現在沖縄県発表)

療養中患者数403人

累積感染者数4326人

入院中219人(重症者22人、中等症65人)

  入院療養等調整中40人、宿泊施設療養中69人、

  自宅療養中75人、死亡退院69人

 何度も言うが実質こういう数値は、いずれも7月以降あるいはGoTo開始以降、爆発的に増加していることを如実に示している。

 その他本土都道府県の惨状は目を覆うばかりであることは国民皆等しく知っている事実だ。

 にもかかわらず政府はおのれらの失政を糊塗するために、そのGoToとの関連性を過少に評価しようとしているが、国民のだれもそんなことは信じない。

 同時に、明らかにこの国の政府は「何もしない」で、国民の自助努力(あるいは共助)だけを言いつのり、彼ら(公助)の発する公的な発言発表が、国民の生活生存に関わる行動に対して必ずどっちつかずの曖昧なメッセージを繰り返し出していることなど、事実上等閑に付している。

 はっきり言ってGoToは、二足の草鞋とか両是論、二兎を追うなどの譬えで、政治の機能性を素人並みのレベルで扱っているとしか言えないものがある。そこに、目に見えて行き届いた政治技術(行政手腕)などまるで見当たらず、最後は都合のいい数値を並べて「神のみぞ知る(西村担当)」あたりの学級委員会決済で済ましている。

 アベイズム・スガイズムの性格は、どう見てもその程度のレベルで事を収斂するように図らっている、という政治姿勢にしか見えてこない。

 安倍晋三の嘘つき政治は史上まれにみる犯罪事案として歴史的に糾弾されるべきであり、菅義偉日本学術会議に対する「知」の否定という、(高レベルな専門性を度外視した)分を知らない弾圧行為は、やはり歴史的に裁かれるべきものなのだが、現行自公政権による亡国的愚昧政治、低レベルで国民不在の利権・既得権政治は、即刻退場を迫るべき重大案件だ。国民にとってそれは死活問題であり、敗戦に至る戦前政治の再現としてあの未曽有の地獄をまたぞろ味わいたいのかという話になろう。(つづく)

詩の終わり 上が馬鹿なら下は命懸け

 GoToがいつまでもコロナ感染拡大に影響を及ぼし続けるのは誰の目にも明らかであり、即座に全面停止乃至中止を宣言し、同時に、国が国民向けに、的確で当を得たコロナ禍対応のメッセージを発していれば、と言うことは当然に的確で有効で迅速な経済対策と困窮への早急の援助、補助乃至その約束のメッセージを力強く打ち出していれば、ここまで国民を不安にさせることはなかったであろう。その不安もどちらかと言えばどっちつかずの曖昧さの中にあり、はっきり言えば国の態度が明確でないためにあらゆる国からの情報発信に信用が置けないばかりか、あっちこっち右往左往で気の休まる暇もないという、そうこうするうちに気のゆるみは結局コロナ罹患も大したことはないと多寡を括り、マスク無し、大声会話、市中を闊歩し、菌のまき散らし、まさに「ええじゃないか」様相を呈するのは時間の問題、まことに上がバカなら下も馬鹿、一億総馬鹿になって今年も何となく愚かしく暮れ行くという有様だ。桜騒動も安倍の大ウソに司直の矛先もあきれ顔でどうなることやら、それどころじゃないかつてない大規模なコロナ禍がそこまできているというのになんで、安倍なんかに相変わらず振り回されているのか、どこそこのボケおやじ並みの菅なんぞに国政を任せていたら、一億総ボケ状態で、メデアもマスコミもジャーナリズムも情けなくも何一つすっきり解明はっきり解決がなされぬまま、国民はただじっとこの嵐が過ぎ行くのをひたすら我慢の「いい子」で過ごす以外しようもない。

 既に日本国民にはこのコロナに対する抗体ができており(そういう説もあり)、挙って大騒ぎの割には重症化、死亡数など確かにたかが知れており(例年のインフルエンザ死亡例の方が多いというデータもあり)、国家政府が不思議に落ち着き払っているのは感染数の爆発化など問題でなく(軽症者、無症状者の方が圧倒的に多数で)、要は医療従事者のかつてない困窮ぶり以外問題らしい問題がないと踏んでいるとしか思えない。大向こうが言う通り、安倍さくら事件など本来ばかばかしいほど下らない事件で、安倍をむしょに放り込むだけで済むことであり、菅なんぞは菅おろしの大合唱で引きずりおろせばいいのであって、今や、この国の本質は上がバカなら下も馬鹿という連鎖で出来上がっているていたらくだ。こんな国、あってもなくともよい、国なんざなくしちまえ。(つづく)